若者よ、居場所を見つけよー職業は究極の居場所である。

人は多くの人に生かされている


 若いうちにしっかりとしたビジョンを掲げ、バックキャスト型の人生設計を描いていなかったせいか、なかなか思うようにならぬ人生を送っているが、それでも曲りなりにミリオンセラーを含む数十冊の著作を世に残すことが出来るようにはなった。この業界では数少ない執筆専業でどうにかやっていけている。

 が、そんな私にとっても、今なお、仕事とは、必要とされ依頼されて請け負うものであり、私が生かされている人間であることに変わりはない。人は、生きていると同時に多くの人によって生かされている。衣食住を供給してくれる人。それらを得るための資金を与えてくれる人、もしくは、その手段を提供してくれる人。貨幣経済、さらにいえば、信用経済が成立するようシステムを維持してくれている人。私を含め人はありとあらゆる場面において多くの人によって生かされている。




職業=居場所


 多くの人は仕事を持っている。夏目漱石は「道楽と職業」において、職業を「自分の力に余りある所、すなわち人よりも自分が一段と抽んでている点に向って人よりも仕事を一倍にして、その一倍の報酬に自分に不足した所を人から自分に仕向けて貰って相互の平均を保ちつつ生活を持続するという事に帰着する」と表現した。私が言うのもおこがましいが、見事に職業の本質を言い当てている。卓見だ。


 その卓見を前にしていささか気恥ずかしいが、私もまた職業というものを端的に表現しようと試みた。私が考える職業、それは、居場所という言葉で表現できる。もちろん、何らかの事情で職業を持たぬ人もいる。そういう人に居場所がないというのではない。確固たる事情で労働が叶わず、また、真面目に生きてきたにもかかわらず蓄えもない場合は、堂々と、しかし謙虚に慎ましく、制度の恩恵に預かればいい。そこに何らの遠慮もいらない。困ったときはお互いさまが相互扶助の精神なのだ。相互扶助といえば、人には無意識のうちにバランスを取ろうとする感覚がある。特に日本人のこれは顕著だ。だから、欧米人から見れば非合理的にしか見えない、贈り物に対しての半額程度の返礼などというおかしな風習も残る。これもまた、バランスを取ろうとする現れなのだろう。職業は、もっとも効率よくバランスを取れる手段であるため、生真面目な日本人にとっては、存在意義の最たるものとなる。それゆえに、私は居場所と表現した。最近流行のノマドのように、居場所がなくとも人は生きていけるが、そんな生活は疲れる。居場所が持てるのなら、持つに越したことはない。




ホームを持とう


 居場所は、物理的な側面もあるため誰でも思うようには選べないが、ある程度の選択は許される。その際に重要なのは、スタンダードと価値観の共有ではなかろうか。世界史をふり返っていて気がついたことがある。それは、時代ごと地域ごと宗教ごとに、何を善とし悪とするかのスタンダードは異なるということだ。そして、これもまた当然のことなのだが、そのスタンダードは結局のところ多数決で決まる。サッカーにたとえるなら、ホームとアウェイ。野球でいえばホームとビジター。居場所において重要なのは、いかに自分をこのホームに置くか。自分の意見・趣向・生き方がスタンダードとなる場所を見つけ、そこに在籍すること。これがカギとなる。適材適所とはよく言ったもので、人はそれぞれ得意なことが異なる。能力を発揮できる場もまたしかり。さらに言えば、同じ考え方の持ち主でも、あるところでは歓迎され、あるところでは煙たがられる。同じノリでも、あるところでは「ノリのいいやつ」と評価され、あるところでは「お調子者」と批判を受ける。もちろん、居場所を確保したからといって、そこから出ないで生きていくことは難しい。また、そんな人生はつまらなく味気ないものなのかもしれない。しかし、否が応でも人はアウェイの洗礼を受ける。ビジターとして振舞わねばならぬ場に置かれる。ならば、自分が選択できる範囲だけでも相性のいいホームを持つことが肝要だろう。しっかりした足がかりとなり帰ればくつろげリフレッシュできるホームを持てば、アウェイでの戦いにも万全の状態で臨めるのだから。




自分探しをすべき時期


 そんな居場所、ホームを持つために多くの若者が見逃していることがある。それは自分自身が本当はどういう人間なのか、どういう適性があるのか、どういうことに居心地のよさを感じるかということ。これを一言でまとめれば「自分探し」となる。最近は専らこれを大人になってからやっている人が多い。とんでもない話だ。自分探しというのは、本来若いうちにやっておくべきこと。そのために、モラトリアムと呼ばれる働かずとも生きていける期間が設けられている。にもかかわらず、その時期の意義を知らず、いたずらに人から与えられた価値観を享受するばかりで過ごしてしまうから、本来、ホームを定めて生活を始めねばならぬ年齢になっても、まだ「これは俺のあるべき姿じゃない」「本当の私をわかってくれる人がきっといる」などと世の中を居場所を求め彷徨い続ける羽目になる。


若いうちに居場所を見つけよう


 若者は、しっかり自分を見つめなければならない。落ち込むこともあるだろうが、失望することはない。なぜなら、自分に不向きのものをひとつ見つけたということは、それだけ自分の適性を絞り込めたということでもあるのだから。そのためには、一時的であってもよいから、全力で取り組む必要がある。昨今の教育は、スペシャリスト育成に偏っているキライが無きにしもあらずで、幼少時から専門教育が盛んに行われている。両親ともにその道のスペシャリストであるなど、ある程度適性が明らかな場合はそれもありなのだろうが、普通の人がそれに乗せられるのはどうかと思う。ふらふらするのはよいことではないのかもしれないが、逆に、落ち着くべき時期に納得のゆく落ち着き方をするために、ふらふらする必要があるのなら若いうちにふらふらしたほうがよい。その時期をのがしてしまったら、後ろめたさを感じずふらふらすることはできない。また、ようやく居場所を見つけても、すでに定員オーバーになっているということもある。私は若さに妄信的な憧れを抱くことはないが、しかし、若さのもつ可能性は悔しいほど認める。世間がどう言おうが、現実には若いうちにしかできないことがある。それも少なからず。若さは無限ではない。だから尊いのだ。



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