個性はあくまでも相手の理解の範囲内でないと、受け入れられないという話

ブルーハーツの歌にこんな歌詞がある。

今の若者には個性がない~
個性があればあるで押さえつけるくせに~

その昔、新規採用者に対して行われる「個性を認め合う」みたいなトピックのレクチャーで「社会人はな、個性的な趣味がないとダメだ。この中で誰もやってないような趣味をもっとるやつはおるか?」と研修担当部長に問われ、「インドネシア語」と答えた僕。研修担当部長の顔も、その場の空気も一瞬どのように対応したらよいかわからず凍り付いた。

結局、僕の趣味は「判定不能」ということでなんとなくスルーされ、バス釣り用のルアーを自作しているという人の答えがこの場では「大正解」だったと記憶している。

つまり、趣味も、個性も理解可能な範囲で豊かでないと、まったく理解されないわけで、結局、実は会社でもどこでも「むき出しの個性」なんか誰も期待していなかったりする。あくまでも周りの人が理解可能な範囲でほんの少し変わった個性を、空気を読みつつタイミングよく出す(できれば、その人の理解の範囲ギリギリあたりの答えをうまく読み込んで提示し、聞き手の度量が広いことを証明させる感じで)ことが大切なのだと学んだ。

それで、研修を終えて配属された部署では、上司や先輩に「趣味は何か?」と問われるたびには、音楽鑑賞とか読書とか当たり障りのないどうでもいいようなことを言っておくようにした。

こういう意味においては、この「個性を認め合う」という研修は非常に効果的なものだったと言える。

音楽鑑賞とか読書とか当たり障りのないことを言われた側は「なんだ、つまらん、もっと他にないの?」という顔で不満げなのだけど、じゃあ、80年代後半のロンドンで猖獗したサイコビリーの話(音楽鑑賞)とか、バリの舞踊音楽と観光のまなざしについての文化人類学考察(読書)については話せばいいのかなあと言えば、決してそんなものは知りたくもなかったんじゃないかと思う。

こんな感じで、いつでも、どこでも「ちょうど良い感じ」のアウトプットができないってことは、もう40歳に近くなった今でもあって、それはそれで困ったものなのだけれど。

まあ、でも、こんな話はもう大昔の話で、年齢的には部長のほうに近い感じになってしまった。

これは、なにも年寄りが若者に対してというだけではなくて、一般的な他者理解にも当てはまるような気がして、多文化共生における多様な価値観もマジョリティの理解の範囲内でなければモンスターになってしまう。

受け入れられるものだけを受け入れている状態を越えて、ちょっとわからないもの、得体の知れない感じのものに対して、どのように理解のための橋を架けていけるか。そして、自分からすれば意味不明なものをその当事者の立場から眺め、少しだけ理解できた時の独特の拡張感を「快」としてその経験を積み重ねていけるか。

その中で、理解の基準としての倫理観や審美眼を「普遍的」なものとして、どのように磨いていけるか?その源泉はイキモノとしての身体感覚や感情、直観なのではないかと思う。

これは洗練された崇高な理念ではなくって、けっこうアナーキーでカオスな冒険だと思う。

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