自分の人生を生き切るために
すっかりネットワークビジネスにハマった私は、
トラックの運転手を辞めディストリビューターとしての活動に精を出しました。
まずは知り合いや友達、親せきに声をかけまくりました。
そんな事をしているうちにどんどん電話に出てくれる友人も減り
いつしか「あいつはヤバイ宗教にハマった!」と
避けられるようになりました。
その内、家賃も払えなくなった私は、全ての家財道具を売り払い
友人の家で居候を始めました。
ネットワークビジネスでは、大した収入を得る事が出来なかったので
どこかで働かなくてはならなくなりました。
コンビニでアルバイト雑誌を買ってきては、
片っ端から電話をかけまくりました。
しかしなかなか働き口は見つかりません。
その頃、30歳を過ぎた男を雇ってくれるところがなかったのです。
やっと雇ってくれたのが、
横浜の関内にあるパブスナックでした。
水商売なんてやった事はありませんでしたが、
背に腹はかえられません。
そのスナックの客層は、韓国バーのホステスや
オカマバーやおなべバーの店員、ホストクラブの店員などと
玄人が集まるお店でそりゃもうひと癖もふた癖もある連中ばかり。
水商売も初めてで、元々人見知りだった私は、お客さんと話す事がすごく苦手でした。
「この人つまんな~い」
「お前頭悪いのか?」
「誰かと変われ!」
と、お客に毎晩ののしられ、
閉店後、酔ったママから毎日2時間の説教。
生活のためとは言え、話が苦手な私がスナックなんかで働くのは所詮無理だったのです。
その内、毎日店に行くのが苦痛で苦痛で、
精神的にも参ってしまい2ヶ月で退店しました。
すっかり精神的に追い込まれた私は、
都会で生きていくことをあきらめて
付きあっていた彼女とも別れ田舎に帰る事にしました。
32歳の春でした。
久々の田舎は、時間が止まっているような
のんびりさで一時期は心もリフレッシュされましたが、
そんな悠長な事は言ってられません。
返さなければならないお金があったからです。
その後、とにかく色々な仕事をしました。
農協でのじゃがいも掘りや大根洗い
農家での牧草刈りの手伝い
スナックでの皿洗い
飛び込みの営業・・・
そんな時に大きな転機が訪れました。
友人の家に遊びに行った時の事です。
彼はパソコンを使ってホームページを作っていました。
今思えばなんてことない、誰がこれ見るの?というレベルのものでしたが、
当時の私は、すっかり魅了されてしまいました。
このパソコンが日本中、世界中とつながっている。
自分の作ったものが、たくさんの人に見られるかもしれない。
それからすぐに私は、仕事先からお金を借りてパソコンを購入しました。
自宅にISDN回線を引き、毎日、寝る間も惜しんでホームページを作りました。
※当時は、ADSLも光回線、モバイル回線などありません。
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