ぺいぷら

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師匠はふたたび、ひと財産築いた。ピーク時、2001年、カレはニューヨークにあるワールド・トレード・センターに個人事務所があり、ビジネスパートナーもそこにいた。ところが、その年9月11日のワールド・トレード・センター崩壊により、カレはパートナーとビジネスをいっぺんに失った。カレは人生のドン底にたたきおとされ、リタイアすることを決心した。カレの資産は凍結した。一文無しで日本へ戻った。カレは元妻と借家で住む結果にいたった。唯一の収入は、近所の新聞販売店で新聞配達を毎朝毎晩することで得た。以上が、師匠から聞いた話だ。私がカレに会ったのは、それから3年後のことである。

私がときどき感じたのは、どうして師匠のような成功者があんな古びた家に住んでいたのだろう、ということだった。また、カレがなぜ新聞配達をしていたのだろうという疑問もあった。カレが、健康のため新聞配達していた、と言っていたのを覚えている。

 

ワシントン州のシアトル市

2005年の3月15日、私はシアトルに向かう途中だった。師匠からの最後の言葉は日本に戻るな、であった。カレは、私がアメリカで大学を卒業するよう念を押した。私の父親は、というと、日本に戻り、卒業論文だけを残した大学を卒業するように、と話した。

シアトル行きの機内で太平洋を見下ろしながら、私はたっぷり時間がありそれまでのことを思い出した。なぜ、私はあれほどまでに師匠の言葉を聞き漏らしたくなかったのだろう?カレとのレッスンで学んだことをどうやって生かすか、ほとんど想像できないでいた。どうやって新しい自分をつくるのだろうか、と。それまでの人生、私はずっと臆病であった。言いたいことが言えず、自分に自信がまったくもてなかった。だが、24時間以内に私は新たな環境に突入し、自分で人生の決断をしていかなければならない。不安だった。私の隣に座っている外国人夫婦は、私と会話しようと、どこへ行くか質問してきた。「西です。」とだけ答え、私は寝たふりをした。

シアトル空港では、ホストファミリーが到着にあわせ待機していた。私のホストファミリーはとても人のよさそうな感じで、運転してきた車に招いた。それから、私たちはダウンタウンとその郊外を車でみてまわった。3ヶ月も経った頃、ホストファミリーと別れ、アパート暮らしを始めることに決めた。これは、私の師匠の言っていた、自立をするいいきっかけと、考えての結果だった。私はいつ帰宅してもいい状況を望んでいた。ホストファミリーとの生活では、門限があった。

一年はあっという間に過ぎた。私の英語は上達した。地元IT企業におけるインターンシップはとても興味深い経験だった。主だった仕事のなかに、顧客からの未払いが、あまたあるインターン先の会社の口座の調査、があった。私は成果を上げることができ、2週間で100万円以上の回収に成功した。自慢できるものだった。何か謝礼でもあれば、と思うかもしれないが、契約上、それは違法になるので、考えることはなかった。実際は、謝礼の代わりに、パーティーを開いてもらいスターバックスのギフトカードと副社長からの表彰を社員の面前で頂いた。なんにせよ、私は自分の達成したことに喜んだ。

たまには遊びも、ということで、シアトルでの留学先の大学において、他の学生を巻き込んでダンスクラブを立ち上げた。活動内容は、日本の着物を着て、日本の伝統とヒップホップを合わせたダンスを披露することだった。地元の祭りでのストリートパフォーマンスや、大学での卒業式でゲスト出演した。自分で始めたグループ活動だったわけだが、仲間をひっぱっていった自分自身に誇りをもつようになった。私の師匠は、電話で私の活躍を伝えた際、とても喜んでいたようだった。しかし、やはり日本へ帰ることは選択肢にはないぞ、と言っていた。私は父親とも電話したのだが、やはり日本へ帰国しきっちり大学を卒業するように、と言っていた。

シアトル生活最後の日、私は師匠に電話し、日本へ戻ることを伝えた。カレはそのことに猛反対だった。カレは電話でこう言った、「その決断は正しいとは思わない。やはりオマエはそこへとどまるべきだ思う、が、結局のところはオマエの人生だ。」 私はカレをがっかりさせたことにすまないと思った。シアトルで滞在を続けるには、あまりに障害物が多すぎた。合法的に仕事する許可はなく、一年間留学プログラムは終了し、そして、新たなビザ発行やその後のために必要な金はなかった。私は2006年2月に日本へ帰国した。まもなく師匠は私に電話をかけ、「いいか、オレのレッスンをもう一度受けに来い、そして同じ新聞販売店で働き、自分の力で大学を卒業しろ。」と、言った。以前の新聞販売店との契約はすでに切れていた。私は、新たに一年契約するか、他の方法か、いずれにしろ日本の大学を卒業するつもりだった。結局、一年契約で新聞配達しながら大学を卒業することにした。師匠は別の電話で、「もういっぺん鍛える。ようくそれを考えてみろ」と、言った。

師匠から学んだレッスンは、果たして私のシアトル留学に役に立ったのだろうか?私がシアトルでホストファミリーを離れアパートに引越ししたのは、ルールに縛られない自由を味わいたかったからだ。私は23歳。ナイトライフや女の子との出会いを楽しみたかった。日本では、ひとりも付き合ったことがなく、アメリカ人の彼女ができたらいいなと願っていた。それは、実際には起こらなかった。私はネガティブで内向的で、流暢でない英語で会話し恥をかくこと、をおそれていた。アパート暮らしゆえ、私のコミュニケーションスキルは改善されることはもちろんなかった。学校の英語の授業にはまじめに参加し成績はよかったが、他のクラスメートと話す機会があるたびに、英語を間違えることに怖気づいていた。だから、インターンシップで良き上司に出会い、恵まれた環境で活躍できたことは、驚きと同時に、自分も成長したな、と思えた。

シアトル生活の終始、アメリカの食べ物に目がなかった。私は、ハンバーガー、ポテトチップス、コーラ、ピザ、スパゲッティ、そしてタコスを食べつづけた。顔が丸々太り、人生で初めて腹がたるんでいた。太り続けたので、日本に帰国したとき、私の家族は私を見てショックを隠せなかった。アメリカン・ダイエットと比較すると、日本の食べものは野菜と米が中心で、魚や肉はたまにだ。そして、一品あたりの量が少ない。ともかく私が1年前の体型に戻るのに1年以上かかった。

 

日本に帰国

同じ年つまり2006年の5月、私は師匠の元へ訪れ、私が日本で就職活動していることを伝えた。大学新卒の就職活動は卒業の一年前から始まっていた。カレは最初がっかりした様子だったが、後に、「まあ、日本で就職することがオマエの望むものであるなら。」と、言った。私たちは夕食をともにし、私のシアトル生活で話が盛り上がった。私がカレのレッスンを生かし卒業式でスピーチをした際、どれだけビジネススクールの講師陣をうならせたか、を話すと、カレは満面の笑顔を見せた。夜遅くまで会話に花を咲かせた。カレの「奥さん」のつくった料理とビールをおいしく頂いた。

翌月、私の将来働くであろう企業は新たに内定を得るであろう学生を、最終面接に招待し、内定通知をした。なぜか、私は自分の将来を考えてワイワイする気にならなかった。毎日他の人と同じように出勤して帰宅して、その繰り返し…私はもっと刺激のある人生― かつて師匠がレッスン中に話した成功の人生、を送りたかった。私は、車に家に、銀行口座にはお金がたーんと、それも、短い時間で、すべてが欲しかった。次の日の夜はほとんど寝ることができなかった。私は本当に就職したいのか?「明日師匠に話そう。」と、私は自分に言い聞かせた。心の中でずっと、私はまわりに言ってやりたかった、私は普通のやつらとは違う、と。私を見下し、あざけり、さげすんだ学校の同級生らに、ぎゃふんと言わせたかった。また、私は、父方の祖母にメンと向かって言いたかった― 私はこんなにも必要とされる大人になった、と。すべてひっくるめて私の夢を叶えるには、どうすれば?

翌朝、私は師匠のもとを訪れた。カレはいつものように微笑んで迎えてくれ、お菓子とコーヒーを運んできた。熱々のコーヒーをすすったあと、私はカレに言った、「ヒライさん、私は決めました。あなたのようになりたいです。成功の人生を送りたいです。どのようにしてこれを達成するか、指導してください。」、と。カレから突然微笑みは消え、そしてカレは真剣なまなざしを見せた。そして、こう言った、「そうか。あい、わかった。良くぞ言った!真に自分で人生の決断をしたのだから。オレは全力で応援するぞ。覚悟しておけ。だが…正直、オマエの気がこのように変わるとは思わなかったがな。」

 

人生レッスンの追加

師匠の提案に従い、私は再びカレとの個人レッスンを受け始めた。カレは、すでに、私のためにアイデアを用意していた。私は人と違う道を自分で選んだことに安堵していた。ところが、この時期、私を知るひとびとはとても怒りを覚えていたように思えた。というのも、私は就職内定― 具体的には一流企業で安定した収入を得るチャンスをどぶに放り投げたからだ。私の友人や家族のメンバーは、私の気が狂ってしまった、と思った。私の父親は、私が師匠の弟子であることに怪しさを感じており、警告した。父親は毎日通勤し、家族を支えた。他方、師匠は何度も財産を築いては失い、こどもや妻とほとんど一緒にすごさなかった。師匠は同じことを私に約束したのだろうか?私は父親を誰よりも尊敬していた。が、師匠の生き方が刺激的に思えた。

2006年の6月から2007年の3月まで、私は師匠から一週間に1回レッスンを受けた。カレを信じていて、カレの時間を授業料として納めた。年間6万円だった。私は、ひたすら働き、勉強した。優秀な成績で大学を卒業したかった。また、私は、まわりの人々から、自分の決断が正しかったと言ってもらえるよう、そう心のどこかで望んでいた。

師匠とのレッスンを通じて、私はカレ考案による例の新しい計画を学んだ。計画の冒頭部分は、なかなかよさそうな話だった。カレは言った、「オマエの最初のゴールはカリフォルニアにあるパロアルトへ行き、英語を勉強し、仕事を見つけることだ。」 パロアルト市といえば、世界中の優秀な人材が集まるスタンフォード大学がある。そこへ入学ということか。多くのIT関連企業がパロアルトで誕生し、それらの立ち上げにスタンフォード大学の卒業生が多くかかわっていた。ところが、師匠が提案したのは、情報収集にインターネットを含め一切事前収集をしない、ということだった。カレの考えでは、現地にとにかく行って、出会う人々から情報を得る、というものだった。さらに、お金は持っていってはならず、その理由は、私がすぐに仕事できればすむ話だから、であった。パロアルト市に、家族はおろか友人知人はいなかったが、私はある種、楽観的に計画を聞いていた。だが、これは、チャレンジの中のチャレンジともいうべきだった。私が生き延びること、それが、この計画の鍵であった。私の残りの人生に影響するレッスンを学ぶことになろうとは、はてさてこの時点で、どうして想像できたであろうか。

この狂気の計画にそって、リュックかばん、千円札、そして身分証明のためのクレジットカード(残高ゼロ)を持って、私はオオサカ空港までの電車に乗っていた。2007年4月のことだった。前日風邪を引いたせいか、電車の中で気分はまったくすぐれないものだった。私は、家族にメモを残したのだが、そこには次のように書いた、「行ってきます。今生の別れにならないといいです。」 私の父親はその数日前に20万円を私に渡していた。私の持っていた郵便局口座にそのお金を預け、ゆうちょカードと通帳は家に置いてきた。これもすべて、生き残りを賭けた計画を実行するためだった。私は、それまでの人生で、先の安全と保障に準備をしないときなど一度たりともなかった。私の未来は、正に空白のページだった。何を描くのだろうか?

 

カリフォルニア州のサンホセ市

私はサンホセ国際空港に遅く着いたのだが、それは、飛行機のエンジン・トラブルによる出発のずれのためであった。午後1時に着くつもりが、夜の8時をまわっていた。ともかく帰りの航空券をトイレのゴミ箱に捨て、バスロータリーを探した。夜がふけすぎていて、パロアルトへ行く情報を集めるには遅いと思わざるを得なかった。サンホセのダウンタウンへ行こうとしたが、ライト・レールに間に合わなかった。5マイルほど徒歩で向かうことにした。まず、その日の夜をすごす場所から探すことにした。パッと思い浮かんだことは、野宿するか、24時間開いている場所でぶらぶらすることだった。私は、通りのホテルやバーでアイデアを聞きまわったのだが、みな無愛想だったり、何を言っているのか分からなかった。ある通行人がモーテルをすすめたのだが、それはホテルのようなもので値段が格安、というものだった。

私は歩きまわることに疲れ、同時にお腹がすいた。日本からの長時間飛行が徐々にからだに影響してきた。私がとあるモーテルの主人に出会ったのは、夜の10時を過ぎた頃だった。

あるタクシー運転手が途方に暮れている私を見かけた。「乗らないか?」「いやいいよ。」 泊まる場所を探している、と、私はその運転手に言った。運転手の出身は中東に違いないと思ったが、なぜならその運転手は、口ひげを誇らしくはやし、シャルワール・カミーズを装っていたからだ。結局タクシーでとあるモーテルまで乗っけてくれたのだが、着いた先のモーテルの主人もまた立派な口ひげの持ち主で、シャルワール・カミ―ズを身につけていた。私は主人に泊まれるかを尋ねた。私の身なりを怪しみつつ、主人は私に60ドルとパスポートを見せるよう言った。私は首を振り、「ノー」の合図を送った。好奇心で、主人が話すかもしれない言語で会話を試みたのだが、その言語とはウルドゥー語であり、パキスタンの国語にあたる。その主人は驚いたようで、私がどこでその言語を学んだか聞いた。私は日本にある大学で勉強したことを話した。何がきっかけか、主人は私に家族のように接し、そのモーテルの一部屋を無料で宿泊できるよう手配してくれた。与えられた部屋は最低限の生活用品が整っていた。照明はおぼつかなく、シャワーの水は熱くなることは決してなかった。私は、忘れかけていた風邪に気づき熱が上がり始めたことを、確認した。それでもなお、私は一晩泊まれることにとても感謝した、サンホセでの夜であった。

部屋の近くは騒がしかった。別の部屋から叫び声が聞こえた。喧嘩だろうか?誰か酔っているのだろうか?私は泊まっている部屋にあった椅子に座り、それとセットの机の上で、元気がでる私のお気に入りの本を開いた。私は、なんとかして自分を鼓舞したかったし、師匠から教わったことを思い出そうとした。が、だめだった。かえって不安になった。いまだかつて人生でそれほど孤独を感じたことがなかった。前向きになるよう自分に言い聞かせた。私の目標は何だったか?ああ、思い出せ!「明日街の人々に話しかけよう、そして、必要な情報を集めよう。」

私は記憶をほりおこし、ひとつの詩を思い出した 「いけないよ 君 やめては」

翌朝、私はモーテルの主人に宿泊についての感謝を伝え、挨拶し、コンチネンタルブレックファストを頂いた。私は持参のリュックかばんにマフィンやジャムの袋をいっぱい詰め、二、三日は食べ物に困らないようにした。

午前中はダウンタウンを探索していたのだが、途中のドーナツ屋に立ち寄った、というのも、その店からとてもいいにおいがしたからだ。店内にいる人々に話しかけているうちに、そのうちの一人が私の計画、つまりパロアルトで勉強することに大変興味を示した。その人は地元に住む中年くらいの男性だったが、サンホセ・シティー・カレッジに行けば、いい情報が手に入るのではと提案し、見ず知らずの私をそのカレッジまで車で乗っけてくれたのだ。とっさに思い出したのが、その前の晩に乗っけてくれたタクシー運転手の言葉だったが、それは、「新聞を買えば、仕事の情報が見つかる。」だった。だが、持ち金の約10ドルを見て、新聞を購入する勇気はなかった。

 

シティー・カレッジにトライ

時間はかかったが、私はこのシティー・カレッジの履修課担当者と会うことができた。その人は若い女性であったが、私は彼女に、ここで授業を登録できるかどうか尋ねた。すると、私に授業履修登録シートの必要事項を記入するよう促した。書けるところだけ空欄を埋め、そのシートをその女性に提出すると、「住所が空欄ということはまだ引越しが決まっていないようね、じゃあ決まったら連絡してください。でも、これであなたはうちの学生よ。ようこそ!」と、言った。私は嬉しかった、というのも、少なくとも、目標のひとつである、パロアルト(に近いであろう大学)で勉強する準備が整ったからだ。「なんだか拍子抜けだな。」と、思った。しかし、一時間後、同履修課のマネージャークラスの人物が、キャンパス内でうろうろしている私を見つけ、そして、誤りがあることに謝罪したのだった。その誤りとは、私がカリフォルニアの住民だと思い込んでいたことに因るものだった。住民でない私はビザなるものが必要と言った。結果、シティー・カレッジで勉強することは白紙に戻った。だが、私は、まだ他に方法がある― パロアルトで勉強することができる道があるはずだ、と信じて疑わなかった。

 

ウルドゥー語でもう一晩

私はサンホセのダウンタウンへ走って戻っていた。雨が激しく降っていた。私はずぶ濡れで、治りかけの風邪がひどくなった。私は再び同じモーテルに着き、その主人にもう一晩だけ無料の宿泊をお願いした。再び泊まれることができた。こんな話は自分でも信じられないが、日本の大学で4年間ウルドゥー語を勉強し、それが、はるかカリフォルニアはサンホセのとあるモーテルで宿泊と食事を無料で得るきっかけになろうとは。日本の大学時代、私の目標はパキスタンにある日本領事館で働くことだった。が、自身の英語の運用能力が乏しく、その目標は達成できなかった。だがこうしてウルドゥー語が役に立ち、チカチカする照明と冷たいシャワーの付いた部屋を与えられたのだ。ただただ、感謝の気持ちでいっぱいだった。

サンホセに来てから、数日間が経った。私はしぶとくも生きていた。私は師匠のヒライさんが言っていたことを思い出したが、それは、「アメリカには、各市にアダルト・スクールと呼ばれる学校があり、そこでは移民者へ英語教育を提供している。政府や市の援助で学校が運営されているから、授業料はタダだ。」であった。私は、街で見かける人々に一番近いアダルト・スクールの場所を尋ねた。しかし、誰も私を助けてはくれなかった。私は、何か別の方法で情報を集めないといけない、と思った。そこで、思い浮かんだことは、旅行者がその街について情報を得る場所へ行くこと、だった。私は、とある建物へ向かっており、そこへの案内は、サンホセの空港で得たパンフレットに載っていた。パンフレットは、サンホセのダウンタウンに来た旅行者向けにつくられていた。コンベンション・センターは旅行者のための情報を提供するところ、と記されていた。私は、その日の午後2時にサンホセ・コンベンション・センターに着いた。

私は噴水を通り過ごし、その建物に足を踏み入れた。ぐるっと見回すと、入り口付近の受付で座っていた二人の女性が視界に入った。私はその受付へ近寄り、「こんにちは。」と、言った。何とか助けてもらえないだろうか、と思っていた。実際、二人の女性は私の話をまじめに聞こうとした。私が尋ねた内容は、パロアルトにある私の目的地までどんな方法で行けるか、ということであって、また、お金を使いたくないことも伝えた。ヒッチハイクを試すことが答えのひとつだった。今度は、私がたくさんの質問を受けたのだが、たとえば、「あなたは学生ですか?ビザを持っていますか?パロアルトで住むところはありますか?」で、あった。私がこれらの質問にすべて「いいえ。」と答えたとき、二人の女性は大変驚いたようだった。私は言った、アメリカで勉強したい、そして成功したい、と。私は、生き残らなければならない。私は師匠に約束していた。二人の女性は、ビザなしに勉強は不可能である、と教えてくれた。だが、私は、抜け道があると信じきっていた。私は何だかわけが分からなくなり始めた。二人のうちバーバラと名乗った女性は、私の葛藤に気づいたに違いない。私はバックパックを調べたりあたりを行ったり来たり、また窓の外を見たり、そして床に座った。二人の女性には私は正直になり、その日の夜をどこで過ごすかまだわからないこと、そして、持ち金が正味ないことを伝えた。

バーバラさんは信じられないことに、空き部屋があるから私が数晩泊まっても構わないこと、そして、彼女のコンピュータを使って私の目標を達成するための情報を得てもいいことを、言ってくれた。彼女の所有する家は1時間ほど車で飛ばした海岸沿いにあると言った。私は、耳に飛び込んできた言葉を信じられない気持ちで受止めていた!一度深呼吸して、こう言った、「かたじけないです。お言葉に甘えさせて頂きます。」 それはまるで地獄の中で仏に会った気分であった。この女性は、某宗教に伝わる聖バーバラと同じ名前だった、そして、その名に相応しい聖者のように思えた。夕方4時すぎ、私は彼女の車の助手席に乗り、彼女の家まで山を越えるドライブを楽しんでいた。後にわかったことだが、この女性との出会う確率は運命的といわざるを得ないほど低いものだった。実際、私はその日の朝パロアルトへ行く電車に乗る予定だった。しかし、電車は私が着いたときに出発し始めていた。乗車切符をどうやって買うか、値段はいくらか、それらを考えているうちに電車はすでに遠くに見えた。無賃電車はしたくなかった。電車には乗れなかったが、今は快適な車に乗っており、それも運転手は初めて会った見知らぬ人であり、その人は宿泊する部屋を提供してくれていた。私にとって、これは奇跡だった!コンベンション・センターは毎日営業しているわけではなかった。また、受付の女性は5,6人でシフトが変わっていた。こうして、師匠の言っていた、なんとかなる理論が証明された。そう、抜け道はある!粘れ!私はまだ生き延びている!!!師匠はやはり正しかった。

 

新生活の拠点

バーバラさんが住んでいた家はサンタクルーズ郡のとある小さなコミュニティーにあった。彼女は自宅を案内してくれた。そして、私は個別の部屋とバスルームを手配してもらった。さらに、食事まで、それもプロ顔負けの手料理を!家に入ってからずっと、ぽかーんとしていたのだが、それというのも、すべてがハリウッド映画で見たような大きく広い家だったからだ。私が滞在し始めて、彼女はアメリカ文化を分かち合ってくれた。彼女自身は移民者であり、40年以上前にドイツから来たそうだ。ときどき、私に料理、皿洗い、ガーデニング、などなどを教えてくれた。この時点では、わたしが長居することになるとは考えもしなかった。

最初、私はビザの情報を調べた、というのも、私の目標― パロアルトで勉強と仕事をすることについて、もっと情報が必要だったからだ。その目標達成には、ビザなしで来米したことは絶望的であった。サンホセやサンタクルーズにある政府機関へ足を運び、長い話の末、私は最大で3ヶ月間滞在のリミットがあることを知った。

 

 

カブリオ・カレッジとの出会い

「ビザなしだと勉強も仕事もできません。」と、私は何度も法律に詳しい専門家に言われた。滞在先から近くにアプトスという街があり、そこにはカブリオ・カレッジという2年制大学があったので、バスを使って、そこのカウンセラーを訪れた。(バーバラさんは一か月分のバス定期を渡してくれた。) カブリロ・カレッジのカウンセラーはモトコさんで、日本人とアメリカ人のハーフだった。彼女の事務室へ行く途中、私は大学のキャンパスを眺めたが、小さいと思った。ほとんどの建物が木材でできていた。場所は丘の上にあるようだった。上のほうからは、太平洋が拝めた。

私はモトコさんの事務室を見つけた。ノックして入ると、彼女に私の状況と目標を伝えた。彼女は、私に日本へ帰って学生ビザを申請するようすすめた。私はこう言った、「本当にそれだけしか方法はないですか?別の選択肢があるのでは?」、と。彼女は、「それしか方法はありません。」と、言った。もしビザなしで勉強するとしたら、違法になるかを尋ねた。すると、「違法になるでしょう。」と、答えた。私は彼女とのカウンセリング時間がオーバーしたので、ひとまず、カブリオ・カレッジへの入学申請書を持って帰ることにした。

 

仕事に応募

モトコさんから得た情報に私は大変がっかりした。日本からビザを申請しないと、パロアルトで勉強するという目標が達成できないというのか。師匠との約束はどうなる?しかし、問題はそれだけではなかった。ここで滞在するには、お金を稼ぐ必要があった。誰が私に仕事を紹介してくれるだろう?私はインターネットで職探しを試みた。これまでに出会った人からの話では、ある会社が私のスポンサーとなり、それにより就労ビザを手に入れる方法が唯一のようだった。インターネットにしばらくかじりついた。スポンサー、と検索した。バーバラさんは、私のために、洗練された履歴書を書くのを手伝ってくれた。いくつかの企業が私の応募に興味を持った。とても心が躍った。とある日系企業が電話によるインタビューの機会を与えてくれた。5分ほどで、それは終了した。結果について後日連絡すると言ったきり、電話が鳴ることはなかった。その日本人特有の建前にがっかりした。けれども、私は電話インタビューを始めて経験することができたので、得るものはあった。

 

アダルト・スクールでレッスン

私が仕事を探していた間、ワトソンビル・アダルト・スクールへ通った。バーバラさんのアドバイスによるものだが、私が時間を有効に使うべき、ということだった。彼女は私がアメリカに合法的にいられる間は滞在してもよい、だから、英語を勉強することを、勧めたのだった。アダルト・スクールの基本理念は私からすれば、とても素晴らしいものだった、というのも、英語を母国語としない移民者に英語を学ぶ機会を与えていて、その英語の運用能力を以って、アメリカ国内でその後の勉強や仕事に就くチャンスが広がるからだった。とりわけワトソンビル・アダルト・スクールでは、一般教養プログラムとして、ESL(第二外国語としての英語)と市民権クラスが豊富だった。ESLのクラスは授業料がゼロだった。私は、毎週火曜と木曜の午前中にある、中上級ESLクラスに入った。また、アメリカ合衆国国旗の意味や大統領、ホワイトハウス、連邦議会について知りたかったので、市民権クラスにも参加した。

すべてのクラスにおいて言えたのだが、生徒のほとんどがスペイン語を母国語とする成人であった。皆仕事に就いていたが、より給料の高い仕事を望んでいた。若い生徒のなかには、高校卒業の資格をとり、カブリオ・カレッジへ入学したいと言うものもいた。私と同じ目標を志す生徒が何人かいた。つまり、大学で勉強し、仕事を得て成功する― アメリカン・ドリーム。アダルト・スクールで学んだことは2つあったが、ひとつは、ワトソンビル市にはアメリカ以外の国から来た貧困に苦しむ人々が多くいて彼らが通っていたこと、そして、もうひとつは、その人々の国によっては公教育の制度が整っていないということ、であった。クラスメートとはしばしば授業外でつきあい、アメリカにおける勉強、政治、法律、そして夢について討論した。彼らとの過ごす時間が楽しかった。また、アダルト・スクールの教師はみなボランティアによるものだが、誰もが生徒のやる気をひきおこす素晴らしい方々だった。余談だが、私はその学校が始まって以来の唯一の日本人学生だったようだ。生徒の大半はメキシコや南米の出身だった。

 

合法的に戻る方法

去る日、私はサンフランシスコにある日本大使館に電話をかけたのだが、その目的は、日本に戻るための費用を借りることだった。「アメリカ国内もしくは日本にご家族の方はいらっしゃらないのですか?」という担当者の質問に対し、私は、「あいにく。」と、答えた。すると、その人は、「誠に恐れ入りますが私どもではどうすることもできません。」と言った。私は電話を切った。このため、私は帰りの航空券を買うアイデアを考えなければならなかった。ブラウニーをつくって街のイベントで売ったり、レストランの厨房で皿洗いしたり、そうやって小銭を稼ぐのでは、とても間に合うものではなかった。私は身分証明として持ってきていた残高ゼロのクレジットカードを使ってみた。信じられないことに、航空券が買えた。理由はそのとき問題ではなかった。私は、バーバラさんに日本へ出発することとその日付を伝えた。また、アダルト・スクールでの友人に、「帰ることになったんだ。」と、話した。彼らはみな私を励まし握手をした。わずか2ヶ月足らずの出会いではあったが、みな家族のように私に接してくれた。

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