学生だった僕が自転車で東北へ向かい,御輿を作ることになった話

2 / 3 ページ


神社は完全に倒壊、屋根からひっくり返り高台だったからだろうか、設置されていた鉄製のフェンスに引っ掛かっていた。

頼雄さんは是非この神社の材料を使い、神輿を作ってほしいという。津波の記憶を世代を超えて語り継ぐために。もう一度お祭りをするために。



僕は頼雄さんと文字通りがれきの中から材料を探し、軽トラックまで持っていく。

材自体があまりに重いため崖の上から下ろしていくのも一苦労だ。


たくさんの材の中から、僕が選んだのはケヤキ材だった。

しかしケヤキ材は思ったより少なかった。



「ここの神社は一度建て替えたんだ。昔はもうちょっと高台にあったんだけどね、なぜだか今のところへ移築したんだよ。」




その移築がなければ、もしかしたら神社は無事だったのかもしれない。

それから僕が南三陸町まで一度その材を持って帰ってくる間、頼雄さんにの言葉が頭をよぎった。



「雄勝の硯ってのはさ、600年も続いてきたんだよ。その間色んなことがあったに違いない。だから、今度もこんな津波で負けちゃいけないんだ。」


伝統とはそういうことだ。


今ここに守らなきゃいけないものがある。

命がけで守ってきたたくさんの思いがある。

だからこそやらなきゃいけないんだ。


そんな頼雄さんの思いと祖父の神輿への思いを重ねながら僕はひとり軽トラックで三陸道を走っていた。


守るとはどういうことか。

つなぐとはどういうことか。


それから僕はオーストラリアへ南三陸町の子供達を連れて行った。

その詳細はまた別で書くことにする。


僕は長くいた東北を離れた。

神輿を作るために。

東北に向けしなければならないことは終わらない。


やり残したこともたくさんある。

だけど、僕にしかできない復興支援。

それが、御神輿だった。


神輿はただ作ればいいってわけじゃない。

材木の加工ではないのだ。

神輿出来たよ、はい、あげるね。

では済まされない。

それこそ人生かけて一生付き合っていく覚悟が必要だ。

神輿はひとりじゃ上がらない。

そこに神輿の本当の意味、そして魅力がある。



加工は大変なことも多かった。

まず材が古すぎる。

何百年も経っているからだろうか、材が乾ききっていて簡単に割れてしまう。

古いケヤキは、大変弱くなる。思ったより材が古い。

これでは普通の方法での加工は難しい。


何度も失敗しながら手探りでやって行くしかなかった。

そして何より頼りにしていた祖父の体調が震災後帰って来てから急激に悪化に向かい、歩くのも大変になっていた。


祖父はあまり手を動かせない。

やるのは僕一人だ。

作業場は筑波大学構内某所。

夜になると投光器を二つ付け、真っ暗やみの中作業をしていた。


ほとんど一人きりの作業。

寒くても、寂しくても、やるしかなかった。

しかし辛くはなかった。

実際に少しづつ出来あがっていくのはとてもうれしく、楽しかった。




製作の途中、学園祭や横浜の実家の御神輿もあった。

2010年の学園祭で御輿があがり、祖父に来てもらったことは素敵な思い出だ。





また今年も御輿は上がった。

これも守っていかなきゃいけない御輿のひとつだ。




でも今年は祖父に見てもらうことは出来なかった。

もう祖父は歩けなかった。


実家の御神輿でももう茶木をもつことは出来ず、最初と途中だけ少し顔を出しただけだった。

車椅子に座りながらも、嬉しそうにしていた姿は忘れない。



祖父は亡くなった。

あまりに突然、静かになくなった。

朝起きると祖父は床に倒れていた。


最後の姿だった。



じいちゃんはすごいなあ。

あんなに大っきくてたくさんの人に感動をあたえる御神輿を40年以上守ってきたんだ。

今でも毎年たくさんの人が来てくれて、たくさんの人に愛されて。

小さな頃から、たくさんの笑顔に囲まれて大事に大事に担ぎ継がれてきたんだね。


それを僕も守らなければ。

つながなければ。

簡単にもう出来ないなんて言わないで。


じいちゃんが人生をかけて来たの知ってるでしょ?

御神輿作るのどれだけ大変かわかるでしょ?

そこに人生をかけたじいちゃんを知っているでしょ・・・。




御神輿は僕が守らなきゃ。

いや、僕だけじゃ守れないから。

僕と、みんなで。

著者の宮田 宣也さんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。