人生の最後に行きたい、人生を決めた場所

自分がこの世に生まれ落ちて、両親の育てられ、友達と遊び、勉強する機会を得て、やがて就職。転職なども経験しつつ、結婚。気がつけば50も半ばを過ぎて、そろそろ人生第2幕。

最近はGoogle Mapのような武器もあり、自分の生まれた場所、育った場所にバーチャル旅行ができる。最近もそんなことをやってみたのだが、年月の流れは、自分の心の中のふるさとをどこかに押しやってしまったようだ。最新の武器は、自分が年老いたことを否応もなく知らしめるものだ。

長い人生で、いろいろなところに旅行し、それこそ世界一周も何度となくやっていた私が、「あんたは最後にどこに行きたいか」と問われると、一箇所だけ頭に浮かぶ場所がある。

長い56年の人生のうち、たった一年だけ住んだ場所だが、実に想い出深い場所がある。札幌市の南部、南区藤野という場所だ。今ではそれなりに都市化しているが、私が住んだ頃は、まだ都市化するはるか前だった。市内中心部よりも雪は深く、気温も低い。当時は住宅地ではない場所の一軒家。電話もなく、父親の方針でTVもよく見えないに室内アンテナだけ。NHKしか見えない生活だ。

私は北海道で生まれたが、人生の25年間は神奈川県で過ごしているので、気持ちの上では神奈川の人だが、現在は東京都内に居住している。北海道にいた期間はわずか9年なので、自分が北海道生まれであると意識することはあまりない。普段使う言葉の語尾は、横浜方言の「じゃん」がしっくりくる。

そんな今でもすっかり関東人の私の人生で、北海道生活9年のうち8年は札幌市内中心部の団地の生活。いわゆる「自然を全く知らない」子供だった。蚊も蠅も知らないような子供だった。その上、幼少期は喘息が酷く、寝たきりで外へ出ることもほとんどなく、なぜか「冬だけ元気」だった。あとから分かったことだが、犬の毛(フケ)のアレルギーだった。冬季、上階の犬のブラッシングがなかったのが幸いだったようだ。ちなみにこの経験が免疫学や検査医学を修得するきっかけとなる。

両親は、そんな虚弱な私のことを考え、通勤15分から1時間20分の生活を余儀なくされる、思い切り郊外の一軒家の生活を選択してくれた。面白いほどにこの転地は効果を発揮し、犬のフケがない生活は私の体質改善に効果絶大で、引っ越しをしたその日の夜から喘息から開放された。物心ついて初めて「よく眠れた」気分を味わえた。以来、寝ることが大の楽しみになり、現在に至る。

市内中心部育ちの両親には辛い郊外の生活も、私には大変刺激的なものだった。何より、広い庭があって、そこには季節ごとにいろんな花が咲き、果実がなる木々がある、それまで絵本でしか見たことがないような色鮮やかな風景。家の前にはスキー場が視野に入る。夏場は緑豊かなゴルフ場になる。

当時、自宅周辺に民家はほとんどなく、山と川、木々と花々、冬は一面の銀世界という人為的なものに阻まれることなく、「見通しが良い世界」の中での生活だ。見通しの良い風景を積極的に選ぶという価値観もこの頃の産物で、現在の住まいも極めて見通しがよく、季節の変化が手に取るように分かる場所だ。

学校も当然のこと、遠隔地にあったのだが、この小学校での生活がある意味、今の自分の基盤を形成したのかもしれない。

この学校(札幌市立藤の沢小学校)は、森で野鳥を飼うことで有名になったところで、学校の裏手には「小鳥の森」なる広大な森がある。ここで思い切り自然にインスパイアされることになる。鳥を飼うという行動は、それまで鳥をまともに見たこともない人間にはあまりに新鮮なもの。巣箱も自分たちで作るし、あらゆる鳥についてしっかりと教育される。同時に森や林についても「実地で」教育される。

自宅近辺も当時は山岳森林地帯であり、「ちょっと道草」というと、季節ごとの木の実拾いか野花摘みとなる。いつもランドセルは木の実か花が入っているような感じだった。教科書の存在感が実に薄かった1年間でもあったが、後の人生、教科書に縁遠かったことで困ったと感じることはあまりなかったが、それはたぶん勉強好きな人間との付き合いがあまりなかったからかもしれない。少なくとも、教科書には木の実の採取方法、調理方法など書いてはいない。

空がきれいな秋になれば満天の星を天体観測、冬になれば顕微鏡で雪の結晶観察という具合に季節ごとに楽しみも変わる。近くには後に「札幌芸術の森」になる場所もあり、50年近く前ですら、自宅近辺は芸術家が多く住んでいたこともあり、黙っていても自然と芸術に接することができる場所だった。自分の小学校時代の担任も、本職は彫刻家だった。今は知らないが、当時、庭に彫刻が転がっている家が別段珍しいわけでもなかった。

ただし残念ながら、幼少時は喘息でほぼ寝たきりだったこともあり、運動は大の苦手で、スキー場が目の前の居住環境だったにもかかわらず、スキーはまるでダメ。地元の子供たちが実に上手にスキーを滑るのを横目に見ながら、まともに転ぶこともままならないという状況で、この状況は現在も変わっていない。

しかし、そんな私を誰もバカにすることもなく、皆、素直な心の広い子供たちだった。学校でただ一人スキーが出来ないとなれば普通ならいじめのターゲットになるはずだが、それが一切なかったのは、今考えると、相当恵まれていたと感じる。恐らく、家庭の躾がしっかりとしていたのだろう。人の足を引っ張るとか嘘をつくというような人間はいなかった。

裏には豊平川という川が流れていたのだが、この川に遊びに行って、川底の石の苔に足をとられて、そのまま川にハマってしまい溺れかけたことがトラウマとなり、未だに泳げない。

何しろ、こういう自然しかない環境で子供、それも一人っ子が遊ぶとは、イコール自然との格闘、もしくは自然の利用となる。それが良かったのか悪かったのかは知らないが、「自然の観察」ということに興味を持つようになったのは事実。もっと言えば、「観察」自体に興味を持つことになった。それが後々の生業に繋がっていくことになる。

子供は何でも遊びにするのだが、例えば、温度・湿度計を睨めっこするだけでもかなり遊べる。北海道という土地の特性なのかもしれないが、気温の年較差、日較差が大変大きく、見る間に温度変化が観察できる。何しろ北海道は気候の変化(気温変動も含めて)が激しい。

そうなると、「どうして温度は変化するか」というあたりに自然と興味が湧いてくる。何しろ、(学校から遠いということは、すなわち住宅地からも遠いということで、友人は家の周りには誰もいなかったため)外で一人遊びをするか、家の中で何かするかしかない。塾など聞いたこともないというところだ。実際、その後の人生で塾と名の付く場所に足を踏み入れたことはない。

TVがまともに映らない環境で暇を潰す道具として、新聞が強い味方になる。天気という分かりやすい自然現象の観察が日課となった私は、そのうち天気図に興味が湧いてきた。小学校3年には厳しい天気図も、他にやることがないとなれば、何とかするのが子供の隠れた力。そのうちに自然そのものに大きく影響されることになる。やがて、自分でラジオの気象情報を聞きながら天気図を書くようになった。ついでに漢字も覚えるという副産物付き。

私は今でもダニとか蚊に刺されやすい。当時もやぶ蚊によく刺されて、手がグローブのように腫れあがった。何しろアレルギー体質なので、腫れ方は尋常ではない。そうすると「やぶ蚊」について知りたくなる。捕獲もしたくなる。殺すにしても殺虫剤によって、どのように悶絶しながら死ぬか興味が湧いてくる。なぜ腫れるかということもしかり。

今でも虫は大嫌いなのだが、「生き物」という存在、それも「死ぬ」という出来事をみながら、「どうして生き物は生きているか?」というところに興味が湧いてくる。やがて薬学部に進学する私の持つ、基本的な興味はこの頃に醸成されたようだ。

現在、この時代の、この土地で知り合った人たちの動静は全く分からない。関東に越した後、高校2年の時に一度だけ彼の地を訪問しているのだが、それ以来、40年間ただの一度も訪問したことがない。ただ、高校時代に訪問した時に、丘から眺めた山々(藤野三山)の風景は、今でも鮮明に記憶している。

四季の変化に伴い表情を変える自然の中で、(生あるものが)生きるということの意味のようなものを、8歳から9歳になる頃の白紙の自分の心のキャンバスに描き出した彼の地には、人生の最後にもう一度訪ねてみたいと思う。

人生に「たられば」はないというが、もし、小学校中学年の時に、このような自然の中で生きる経験がなかったならば、恐らく今のヘルスケアを生業にする人生は歩んでいなかっただろう。

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