けだるい日曜日には
今、新宿のある喫茶店にいてタバコを吸っている
タバコなんて絶対吸うもんかと思っていたけど、働きはじめて、たまに吸うようになった
仕事をしなくてはいけないから、wifiのある喫茶店を選んではいった。
明日からまた仕事がはじまる。
今日は自分の住んでいるアパートのCATVの修理だとかなんとかで、ほとんど家にいた。
夜遅く外出して、適当にチェーン店で食事をすまして、今はここに座って、これまであまり書いてこなかったストーリーを書いている。
けだるい日曜日だ。
何かが自分の中でひっかかって それが憂鬱さを日に日に膨らましている
何かをきっかけにそれが和らぐこともあるけれど 奥まったところにある歪んだものは日に日に大きくなっている気がする
何かがおかしい。 でも何がおかしいのか分からない
自分は何に悩んでいるのか。
気を紛らわせようとタバコを吸いながら、
そうこうしてる内に、友人がきた。
仕事仲間でもあり、大学からの大切な友人でもある。
彼との話し合いが終わって、今家に戻ってきて、そして、別の友人から電話を受けて、他愛もない明るく優しい話を聞いて、今また記事を書き始めた。
友人という存在を意識することはあまり無いじぶんだけれど
こう自分に何かを話をしてくれたり、話を聞いてくれたりする人がいるのは、ありがたいことだと思った
気がほぐれた
喫茶店で書こうと思っていたことの続きを 今から簡単に綴ろうとおもう。
今なら少し明るい文面で書ける気がする
□ □ □
・・憂鬱でぐしゃぐしゃとしたものが、体中に詰まっている時は、
自分は、小説を読んだり、webを漁ったりする。
自分を救ってくれる言葉を探しているのだとおもう。
今日もそうだった。
アパートから歩いて2分くらいの松屋に行って、胃袋を適当に満たしてから足を運んだコンビニでは、
先日芥川賞を受賞した「火花」が目にとまった。
試しに買って帰ってベッドにゴロゴロしながらページをめくっていると、
読み進めてすぐのところに、気になる一文があった。
「確かに誰にも届かない小さな声で、聞く耳を持つ者すらいない時、僕達は誰に対して漫才をするのだろう。」
客が見向きしてくれない舞台を後にした芸人の頭に浮かんだ言葉だ。
今の自分が直面している課題を解決するような一言に思えた。
著者の又吉氏は、この一文に特別な意味を込めたようにも感じた。
起き上がる気力もない僕はぼんやりとした頭で、手を動かして携帯をまさぐり、このページの写真をとった。
でも、この一文を持ってしても、けだるい日曜日を過ごす自分に起き上がる気力は湧いてこなかった。
本を読む進める元気はなくて、本をそうそうに手放し、天井をぼーっと見上げて、気が付けば眠っていた。
チャイムの音で目が覚めて CATVの人がやってきた。
普段人をあまり呼ばない家に、配線のお兄さんと2人、妙な時間をすごして、
冒頭の喫茶店にむけて出かけたのだった。
私が本で見かけたように、そして、
ストーリーを読んでくれているあなたも、私のこの記事をネットで見かけたように
世の中は言葉であふれている。
明日会社にいけば、会社の人の言葉が飛び交う。
世の中に溢れる言葉には、色々な種類があって、中には”役に立ちそうな言葉”や、”自分のモヤモヤを解決してくれそうな言葉”がある。
そんな言葉の数々を、けだるい日曜日のけだるさを脱したい私はただ漫然と貪っていた。
そして、今日に限らず、これまでの人生を振り返れば、ほぼ毎日、そのような言葉をかき集めては、記録し、記録したことに満足して次の日には忘れ、それを繰り返しながら生きてきたように思う。
でも、まあ、分かりきったことだけど、
その言葉は全て他人の言葉であって、自分の言葉ではなかった。
自分ではない誰かの立場、考え、経験で生まれた言葉、もしくは、その人も同じ様に他の誰かから貪りえた言葉であった。私の言葉ではなかった。だから、私のからだに、完全に馴染むことはなかった。
先程の又吉氏の言葉も同じだ。3日もすれば綺麗さっぱり忘れている。いつかiPhoneの画像整理をする日があったら、さっきとった写真は消すのだろう。
他人の言葉が私を救ってくれることはない。
もちろん、そうとは言っても、又吉氏の綴った言葉が私の胸を打ち写真までとったように、
共鳴すること、共感することはあると思う。
しかしながら、前述したように時間がたてば忘れてしまうことは多いし、
強く共感した言葉でさえも、他人の言葉である以上、ある一線は越えない。
むしろそこを越えさせてしまってはいけないようにも思う。
私たちは、他人の言葉を選びとるのではなく、自分の中から言葉を紡がなくてはいけない。
そのためには、他人がいいと言ったことではなく、自分がいいと感じるものは何なのか
そこを辿る必要がある
どれだけ情報を詰め込んでも、どれだけ偉人から行動指針を学んでも
最終的に本当の意味で、自分の命にそれらを還元するためには、
自分が良いと感じることは何なのかを追い求めなくてはいけない
自分がいいと感じることか否か という問いを持って、
散在する言葉をふるいにかけなければ、今のご時世、世間にあふれる情報・言葉で自分の頭はパンクし、使い物にならなくなる
自分のからだに馴染む言葉は、既に自分のからだの中にあるのだろう
そう分かっている、そう分かっているのをせっかくの日曜日を
けだるくしてしまっている自分に言い聞かせたい
□ □ □
頭の中がぐしゃぐしゃだった自分の気持ちを少しでも整理し、自分にそう言い聞かせるために、
友人を待つ新宿の茶店で、慣れないタバコを吸いながら、以上のようなことを、綴ろうとおもっていた。
・・・今こうして綴ってみて、1つ厄介だなと思うことは、
自分がいいと感じることを辿るためには、自分の感覚をある程度、信頼しなくてはいけないということ。そして、信頼する根拠も何もなく、そこは達成する必要がある
逆に言えば、根拠も何もいらないのだけど。
・・・最近いろいろあるけれど、自分の感覚に対する信頼を取り戻し、
私の言葉だと言えるような言葉を紡いでいきたいとおもう
最後に、これは予め綴ろうと思ってはいなかったけど、
多分、他人が自分の言葉を代わりに紡いでくれることがあるんだろう、と思った。
それが多分、本当の意味で話を聞いてくれる人、話をしてくれる人で、
友達と呼べるような人なのかもしれない と思った。
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