何度後悔しても懲りないバカの半生の話(1)

これは、単なるクズの独白。


 まず、僕は――


 いや、友人や家族の前での一人称は<俺>なのだが、顔の見えないWEB上では自身の繊細さをひた隠しにする必要もないので、ここでの一人称は<僕>としておこう。


 僕の話をする前に、まずは両親の話をしておきたい。

僕は、当時、広域暴力団Y組の構成員であった父親と、水商売を経営していた母親との間に生まれた。


 父親は漁師の家に生まれ、石垣島の出身だ。

幼少の頃より否が応でも稼業を手伝わされることで、海の男たちの中に溶け込んでも遜色のない、荒々しい性格が形成されていったのだろうか。任侠などという道を選択する勇気は絶対にないが、その荒っぽさは僕には無いものだ。


 けれど似ていないようでいて、僕の弱い部分もまた父親譲りな節がある。

これは今となっては笑い話だが、15の時に組事務所に連れて行かれた父親は、構成員たちが取り囲む中で酒を浴びるほど飲まされて、半ば、というか。ほとんど脅されるままに、兄貴分との杯を酌み交わしたんだという。


 そのまま父は、五十台の半ばまでY組で立派に構成員を務めた。

新幹線で遠方へ移動するイベントの時には、ハジキを持って会長の護衛も任されたんだとか。その父親の几帳面でマメな部分は、自堕落で楽観的な僕には、決して似ても似つかない。


当時、組の会長と同期の桜であった父親も、今や月に10万そこらの金額でやりくりをする生活保護受給者だ。僕が中学生だった頃には、よく自慢げに父親の話をしていたものだった。


「親父がヤクザなんだよね」

「月に1万小遣いもらってるさ」


ケチな喧嘩で小指を失ってから、今ではその父親もカタギになった。

本人にとってはけじめのつもりだったのだろう。


<元・構成員>となり、その後生活保護受給者になった父親。

その暮らしぶりこそ堕落していったものの、一人暮らしをするようになって金が無かった僕に、毎日欠かさず弁当を届けてくれるという義理堅さ、几帳面さだけは、変わらなかった。


 僕の母は、そんな父を選んだのだ。

しかしそれは、母にとっては過ちの一つでしかなかった。若気の至りだったのだろうとも思う。母は僕の父以外にも、二人の男との間に子供をもうけているのだが、兄弟三人ともが父親違いという有様。認知を受けていないのは、確か僕だけだったと思う。それだけが未だに謎だ。


母は過酷な幼少時代を過ごしてきたようだった。

今では還暦を過ぎた年齢だが、戦後の激動の時代を、兄弟三人の面倒を見させられながら育ったという。それというのも、母の母――僕の祖母には放浪癖があったらしい。幼い子供を家に置き去り、何週間も知人らの家に宿泊してまわる。その祖母の放浪癖は、夫である僕の祖父がまたひどい人だったというのもあるのだろう。祖母が放浪なら、祖父は放蕩だ。


山子(きこりなどをして稼ぐ人らしい)であった祖父は大層な酒と博打好きで、家庭を省みること無くそれにのめりこんでいたような人だ。対する祖母はされるがままだったのか、よく泣いていたらしい。そういった要因で祖母は精神をも病んでいき、最後には末期がんで血泡を吹きながらこの世を去ったのだが――僕の母の幼年時代は、そんな両親に割りを食ったというわけだ。


母の面倒見が良い部分は、幼い弟二人の面倒を見てきた事に起因するのだろう。

そして明るく朗らかで、社交的な性格を身につけたのは、自分が生まれた家を飛び出してからというもの、漁師町の飲み屋で働くようになったからなのだろうか。


母の持つ剛健さは、僕が受け継いではいない部分だ。

漁師たちは何のこともなく話す普通の言葉でも、当時十代だった母にとってはとても荒っぽく聞こえて、夜は飲み屋のママさんに慰められながら怖い怖いと泣いていたと聞かされたことがある。そんな経験を乗り越えては、自分で従業員を使うようになり、場所を変えてはいくつも飲み屋を開いた。


僕が生まれてからの店の名前はまだ覚えている。


「いつものところ」

「街の灯」

二つとも、僕には良いネーミングに思える。

粗野で無作法な客たちが、母というネオンの灯りに集められて群がるイメージだ。


お世辞にも美人でスレンダーでは無い母親が、共に暮らす息子二人を育て上げ、なおかつ自分の兄弟の世話焼きをも片手間にしてこれたのは、ひとえに母親自身の人柄なのだと思う。時に自分の客に助けてもらうこともあったであろうが、何の後ろ盾もない母一人によって、僕はこれまで育てられた。


金の無い客にもツケで飲ませたりしながら、他人事を決して他人事だと思えない、無類のお人よし。


母はそこを父に付け込まれて、それまで築いてきた財産の多くを失うことになる。

ヤクザにとっては、自分の女から金を巻き上げることなど、ごく当たり前のシノギの一つだから。


当時の母の羽振りの良さは、当人曰く、

「ビル建てれるぐらい稼いでたんだから」

だそうだ。


自分に言い寄る男は父が全て追い払い、友人や知人にも大きな迷惑をかけ、合う都度父は母に金を要求し、それのほとんどを酒や博打に浪費していった。


殺そう。

そう思ったのは一度や二度の話ではないらしい。

実際に母は自分から引き離そうと思い立ち、舎弟を何人も呼んで、父を痛めつけてもらったことがある。雨の日に泥の水溜りの中に自分の兄貴分を投げ込んで、舎弟は母に向かってこう叫んだという。


「姐さん、別れなさい!」


それとは別に、現在も友人として親交のある当時の客の一人は、

「俺が殺してやるか」

と、母に対して持ちかけたそうだ。

聞けば、当時は母に惚れ込んでいたのだとか。


その母も、今では体を悪くして働くことが出来ず、父と同じく生活保護を受けている。

その庇護の下には、僕の兄に当たる人間も一緒に、一つ屋根の下で暮らしている。

母にとっての人生のターニングポイントの一つは、父と出会ったことかも知れない。


父さえ居なければ。

本当なら僕は今頃、その頃母が付き合っていた財閥の男の息子になっていたのだとか。

ここまで貧乏になっていなかっただとか、<if>は尽きない。


けれども、家族の中で唯一最愛の母親に。

今も貧しい暮らしをさせているのは、その現状たらしめているのは。

確実に、僕自身が原因なのだ。


僕の人生のターニングポイントが、そこにも絡まりあっていた。

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