何度後悔しても懲りないバカの半生の話(5)
いきなりの不登校・・・
父母が付き添う、入学前の説明会はかすかに記憶に残っている。
中学校になるとありがたく、数少ないレパートリーしか持ち合わせていない僕でも、私服で通学する必要がなくなるのだ。ブレザーとスラックス、制服を着ていられるという安心感があった。カビと呼ばれる心配もない。
小学校時代の同級生では僕以外の全員が別の中学校に行った。
顔を合わせる新たなクラスメイト達は、全員がニューフェイス。
それにはやはり新鮮さよりも、不安な気持ちの方が大きかったように思う。
さすがに小学生の時より義務教育感は増したものの、まだまだ自由に振舞える年代。
僕はそのさらに上を行く自由度で振る舞い、早速学校を頻繁に休むようになっていった。
小学生の頃からの生活リズムが、影響を及ぼしていたためだ。
この頃には父親とは完全に別居しており、母と兄の三人暮らし。
母は夜仕事に出かけ、朝に帰ってくるのが小学生の時までの流れだったが、ある車椅子の男性と付き合いを始めてからというもの、母は朝はそっちに帰るようになり、家を空けることもしばしば。
少しまた小学生時代の話になるが、母のいない夜は、昔から兄にとっては天下だった。
風邪で高熱を出した時、うなされる枕元で反吐を吐いた時、兄は隣の部屋でゲームをしていた。
そこで何と口にしたか、今でも忘れない。
「早く片付けろよ」
高熱に火照る体をどうにか動かして、自分の吐しゃ物を拭いて掃除する小学校低学年。
まぁ、何とも思わなかった環境が異常だったのだろう、10も歳の離れた弟を看病してもくれない。
母のいない夜はごく当たり前のように虐待を受けていた僕だったが、少しずつ成長していく僕の体格に報復を恐れたか、兄はフェードアウトするようにして、寄生先を母の店の二階に変えた。
そうなると、夜は僕一人だけの時間だった。
「学校なんて行きたくなきゃ行かなくていい」
いつか、酔っ払った母が言った台詞を真に受けて、完全に昼夜逆転してしまった。
いじめを受けている訳でないのにも関わらず、ただ、朝起きることが出来ないという理由で、僕は学校を休みがちになった。起きたら11時半、あぁ、休もう――そんな生活。
結局、一年生の3分の2を、僕は不登校のまま過ごした。
モーニングコール包囲網
さすがに中学でダブることはなく、二年生には一応進級させてもらえた。
しかし、二年生も同じ結果に終わる事はなかったのだ。
そこから怠惰な僕を不登校から復帰させてくれたのは、新たに得た友人たちのおかげがある。
翌年から担任を務めることになる野球部顧問、熱血教師の<U先生>の働きかけによるものだ。
昨今、いじめ問題を平気で隠蔽するような事なかれ主義とは無縁の、どんな問題にも全力で取り組む姿勢の、教師が天職みたいな先生。
スクールウォーズに出てくるような、昔ラガーマンだった人だ。
閑話休題。
また脱線するが、ここに僕が小学生の時に軽蔑していたクソ教師を反面教師として挙げておこう。
卒業式の日にジャージで通学した僕(何の疑いも抱かなかったのだが)に対して、その教師の台詞。
「お前、お母さんみたいになるなよ?」
同じU先生なのだが、そうぬかした彼はえらい違いだ。
視点を変えれば、ある意味では正しいのだろうが……まぁ僕としては納得できかねる。ちなみに尊敬するほうのU先生は、父母との進路相談の際、もたつく母親に悪態をついていた僕に対してこう仰られた。
「コラッ!具合悪いのに、お前のためにお母さん来てくれてるんだぞ、なんて態度だ!」
直向な人格者、それがU先生だった。
そのU先生が、僕の親しい友人の何人かに、登校前に僕の家に寄ってあいつを起こしてやってくれと頼んだのだという。その後、友人のO君を中心にして、早朝入れ替わり立ち変わり、半ば一人暮らしのような生活を送る僕の目を覚ましに、友人たちが訪れるようになった。
自堕落が服を着たような僕だったが、目に見えてはっきりと変われたと自覚出来たのは、その年の終わりに通学日数を目にした時だった。一年生の時に比べて、遥かに休んだ日数が少ない。他の同級生に比べたら確かに多いにしろ、それもせいぜい20か30程度。
一年の半分以上を無為に過ごしてきた僕が、学校生活を楽しく感じるようになっていったのだ。
※休職中のヒマを持て余し、勢いだけで連投してしまいました。
果たしてこの先も書いていくかはわかりませんが、
書くネタの残弾はまだまだたっぷりありますので、
気分の乗った時、合間を見計らって書いていきます。
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