雑誌を作っていたころ(67)

前話: 雑誌を作っていたころ(66)

アスキーで働く


 アスキーという会社は、その黎明期からぼくの視界の中でチラチラしていた。パソコン誌「RAM」のお手伝いをアルバイトでしていたときはライバル誌「ASCII」の会社だったし、青人社が曲がり角にさしかかったときには、流出した編集者たちの受け皿になってくれた。中でも最も大規模だったのは、「ドリブ」3代目編集長の渡邉直樹さんが扶桑社の「SPA!」「PANJA」を経てアスキーに移籍し、「週刊アスキー」を創刊したときだろう。たくさんの元青人社編集部員がアスキーに移籍し、一部の人は今も在職している。

「ネットショップ&アフィリ」をお手伝いしていたときには、アスキーはライバル誌「インターネットでお店やろうよ」の版元として君臨していた。ぼくはずっとサイビズ側の人間だったので、「インターネットでお店やろうよ」の記事を書くのは、サイビズが潰れて「ネットショップ&アフィリ」が消滅してからの話だ。

 そのアスキーに、サイビズから安藤くんが移籍したので、いよいよぼくも本格的にアスキーの仕事をするようになった。社内をうろうろしていると、青人社時代の仲間が通りかかり、びっくりしたような目でぼくを見る。「どうしてこんなところにいるんですか?」と。「いやちょっと、野暮用でね」とお茶を濁す。

 安藤くんに依頼されたのは、SaaSのムックだ。今ではクラウドという名称が一般的だが、ASPがSaaSという新しい名称でふたたび注目され始めたタイミングで、それを集大成したビジネスマン向けのムックを作り、あわよくば月刊誌化を狙おうという企画だった。ぼくは「ネットショップ&アフィリ」最後の編集長である浅井さんたちとともに取材チームを組んで都内を駆け回った。

 特筆すべきは編集会議で、なぜかアスキーの社内ではなく、九段の悠々社が会議室となった。理由は簡単で、アスキーでは煙草が吸えないし、悠々社なら会議の後すぐにビールと鍋で宴会に突入できるから。なにしろスタッフがみな「ネットショップ&アフィリ」のメンバーなので、気心が知れているのだ。ちょっと臨場感を味わうために、2007年12月19日のmixi日記から引用してみよう。

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アスキーのSaaSムック第2弾が始動した。

で、今日はわが社で編集会議。なぜアスキーでやらないのかというと、向こうの会議室はタバコが吸えないし、ビールも鍋も出てこないから。

というわけで、スタッフ5名でしかつめらしく打ち合わせをし、あとはおきまりの宴会となった。事前にあさいさんとポポヨさんが「クリスマスシーズンだから、シャンパンを」というメッセージを発していたのだが、主催者のモズさんは「冷えたのがなかったから」と一蹴。まあ、そうなるとは思っていたのだが。

面白いのは、5名のうち4名が相互マイミク関係であること。あとの1名のK氏は、自分がどれだけ疎外されているかを知る機会すらないのだ。と思ったら、途中からK氏が炸裂。ほぼオンステージ状態と相成った。

一般的に言うと、編集者の飲み会は面白い。話題が四方八方に飛び火するし、みんなが知らなくて白けるというシーンがほとんどないからだ。それに編集者は気遣いができないとやれない商売なので、唯我独尊タイプの人がいない。それがまた、独特の空気を生み出すのだ。

そんなわけで、悠々社特製の鍋と、そぼろご飯4合があっという間になくなった。これでいい本が作れるのなら、努力した甲斐があるというものだ。

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 結局、アスキーでのムック制作は3冊で終わったが、その進行では久しぶりに痺れるような緊張感を味わった。毎日メールでデザイナーの悲鳴やライターの怒号が同報配信されてくる。昔の編集部ならリアルに怒鳴りあうところだが、それをメールでやるのもなかなかに迫力がある。メールというコミュニケーションツールが、じつは多彩な感情表現を伝えられるということに気づいたのは、このときだった。

 安藤くんは別部署に移り、ぼくの雑誌づくりはいよいよ終わったかに見えた。雑誌を作るには体力がいるし、チームワークで動くためにメンバーとはなるべく年齢が近いほうがいい。そういう意味では、「そろそろ潮時かな」なのであった。



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