父と私の8月15日

20年前の夏

 記憶が定かではないのだけれど、きっといまから20年前の夏だったと思う。「戦後50年」ということでテレビは、連日、第二次世界大戦、太平洋戦争(大東亜戦争)の特集番組を組んでいた。そんな頃、戦中と戦後を生きた夫婦を主人公にしたドラマを私は父と一緒に観た。父は昭和7年の産まれで、戦中は勤労学徒として、鹿児島の軍需工場で働いていたらしい。当時の私は、11歳かそこらだったので、一般的な知識はもちろん、政治的な思想など微塵も持ち合わせていなかった。父は、「ちょっと主役のふたりの歳を取ったときのメイクがいまいちだな」という感想を言っていた。それ以上何も言わなかった。

               

 私は父に戦争体験について直接尋ねたりすることはなかった。いまにして思えば、とても不思議な話だ。上の写真は「勤労学徒」で見つけた写真なのだけれども、戦中の父と、当時の私とが同年代なのだ。父はいわゆる「軍国少年」だったのだろうか?それとも違ったのだろうか?いずれにしても、戦時中の父と同年代であった20年前の私は、平和な国家でのほほんと、それこそ写真のような苦労もせずに育った。


阪神大震災

 この年の1月、私は阪神大震災の被害を受けて、一時的に和歌山の親戚宅へ疎開をしていた。自宅には大きな被害こそなかったものの、ライフラインであるガスや電気、水道などの供給が不安定だったので、震災の翌日に迎えに来てくれた母の妹一家に連れられ、まだ小さな弟を連れ芦屋から甲子園まで歩いて行った。甲子園から梅田までの区間は阪神電鉄が動いていたのだ。瓦礫と黒煙と土埃、そしてサイレンに消されてゆく人々の声を横目に、われわれは国道43号線を東へ向かって歩いて行った。

 和歌山の家に避難して、テレビで震災の情報を見聞きした。実はその前の年の10月に、東京から芦屋へ転居したばかりだったので、本当に短い期間しかまだ過ごしていなかった。ただ、あまりにも街が壊滅的な被害にあっていることは、とても鮮烈に覚えている。

         

 地震に関連するニュースが連日流れていた。われわれは、こたつに入りながら、ずっとそれを見ていた。被災地の映像や、スタジオのアナウンスの合間合間で、青い背景に、一定の時間をおいて被害者の名前が白い文字で出てきては消えてゆく。「○○市、○○町、○○さん」といった具合に、画面の中に10人くらいの名前が出てきては、次の画面に切り替わってゆくのだ。私はこの地震で、同級生を3人喪った。引っ越してきたばかりの私に、芦屋の町を紹介してくれた友人、つい数日前に終わった冬休み一緒に遊んでいた友人が、あの瓦礫の下に埋もれていたのである。

 疎開先から自宅へ帰ると、何もかもきれいに無くなった町があった。「あった」というのは、矛盾した表現かもしれないが、地震の起こる前と後では全く違う町になっていたのだ。ようやく腰を落ち着けたばかりの町にあったスーパーも、店主のオヤジが恐いと噂の玩具屋も、商店街も何もかもなくなっていた。再会した友人たちの中には、命こそ奪われなかったものの、家が全壊してしまったという友人も少なくなかった。彼らは車で寝泊まりをしていたそうで、ようやく設置された仮設住宅に落ち着いたりしていた。子供というのは、大人よりもこういう状況に適応する能力が高いのではないかなと、いまは思う。内心は、悲しみもあったのだろうが、ただ懸命に友達と遊ぶことに集中できたりするものだ。もちろん、悲しみに暮れている同級生もいたけれど、何か楽しみを見つけてはそれに集中するようにして明るく振る舞うものだ。

 この頃、店主のオヤジが恐いと噂のあった玩具屋が、半壊してショウウィンドウも割れてしまった店の軒先で、子供たちに無償で店の中から引っ張り出してきた玩具を配っていた。不愛想で、恐そうな顔をした70近い年齢のオヤジが、黙って子供たちに玩具を配っているのだ。私も一度か二度ほど、玩具をもらいに行った記憶があるけれど、顔と手に深く皺が刻まれた店主のことは一生涯忘れることはないだろう。意外な人物のとる意外な行動は、記憶から簡単に拭えない。彼の目には、焼け野原になった太平洋戦争末期の街並みと、目の前に広がっている街並みとが同じに見えたのかもしれない。


 実のところ、父はこのとき、われわれと行動を共にしていない。震災当日は大阪市内の病院に入院していた。私と弟は聞かされていなかったのだが、東京から芦屋へと転居した頃には医師から癌で余命一年ほどという宣告を受けていたそうだ。「地震の多い東京から、地震のない関西へ」という言葉を繰り返し引っ越す前後に聞いていたが、実際のところは、父の経営していた会社を整理するための引っ越しだったのだろう。むしろ、最大の疑問は、ずっと大阪に本社機能を置いていながら、なぜ家族で東京へ引っ越したのかという点だ。仕事上の問題なのだろうが、いまとなっては分からない。ちなみに、弟は東京で産まれている。

 天災というのは、突然やってきて、それまでの計画を崩壊させる。「地震の多い東京から、地震のない関西」へ引っ越してきた矢先の阪神大震災だ。たしか、その年の3月頃に父と母と弟は長野県駒ケ根市に移り住んでいる。病気療養のため、空気のいい長野県へ引っ越したのだが、私は度重なる転校に嫌気がさして、残ると言い張った。大阪に所有していた家、これが私の産まれた家なのだけれど、ここから、芦屋の小学校へ通うということになった。小学五年生で、大阪市中央区本町に一人暮らしである。もちろん、家事などほとんどできないので、手伝いを雇ってもらった。東京時代に弟の世話係をしてくれていた人の紹介だった。平日は、堺筋本町から梅田まで地下鉄に乗り、梅田から阪神芦屋まで通学し、週末は深夜バスで梅田から駒ケ根までよく行った。なんとも、贅沢な話である。ちなみに、東京時代住んでいたのは、田園調布だ。つまり、私は「船場のぼんぼん」と「田園調布のぼんぼん」と「芦屋のぼんぼん」の三冠王を達成したことになる。

 改めて言うが、父は昭和7年産まれだ。私が昭和59年産まれなので、52年の差がある。ちなみに、弟は平成元年産まれだ。70年前の今日、8月15日、鹿児島で玉音放送を聞いたであろう父は、それから文字通り焦土と化した戦後間もない日本を生きた人であった。高度経済成長期の最前線で戦った男である。バブルが弾けようが、大方の資産は国外に置いてあったので、われわれの暮らしぶりが破たんするようなことはなかった。バブル成金などとは、違う。そもそも、産まれが鹿児島県枕崎の豪商の家であったのだから、筋金入りの「商人」だったし、「戦争を知らずに産まれた」若い世代とも違った。そして、興味深いことに、父は嫡子の途絶えた旧薩摩藩家老「前田家」に養子として迎えられた、「武家の家長」でもある。彼の総資産がいかばかりだったのかを、私は知らないが、億万長者だったことは確かだ。産まれた家の実弟に1億円横領されても、かなり高い生活水準を保っていたことが、その証拠だ。われわれ兄弟が産まれる前の話だ。

 しかし、戦争を生き残り、高度経済成長期に独立し巨万の富を得て、震災も回避したが、病にはかなわなかった。「戦後50年」を迎えた年、彼は日に日に衰えていった。故郷に戻りたいと言うので、一家で夏休みに鹿児島へ行った。その年の12月31日63歳の誕生日を迎え、翌年の正月三賀日を終えた1月4日に父は死んだ。大晦日の忙しい日に産まれて、正月明けの忙しくなる日に死んだのである。彼の生き様に相応しい、誕生日と命日であったと思う。


それから

 家長を失った前田家は、没落の一途を辿ることになる。弟はともかくとして、母と私のふたりが、父親の生きていた頃と同じ感覚で金を湯水のごとく使ったせいだ。かなりの額の遺産を父は遺してくれていたのだけれど、われわれにその遺産の活用方法を教える前に逝ってしまったものだから、残念なことに、父の築いた栄光も富も10年足らずで使い切ってしまった。だが、墓前の父に対して、罪悪感を感じたりはしない。金は使うものだと思っている。ただ、「もう少し長生きしてくれていたら」と思うことはよくある。しかし、歴史に「たら」、「れば」は禁物だ。とはいえ、そういう家に生まれ育ったものだから、口座に貯金がなくても、あまり気にしていない。「金は天下の回り物」とは言ったものだが、まさしくその通り、今は回り回って、見ず知らずの人の手にあるのだろう。齢31にしていま思うのは、無くしたものを取り返そうという野心だ。自分で使ったのだから、自分で取り返そうと思っている。もちろん、道半ばであるし、それがうまくいくかはまだ分からない。

 「武家の家長」の責任というのは、意識してみると、これが大層重たいのである。父は意識していなかったのかもしれないが、落ちるところまで落としてみると、「やってしまった」と痛感するものだ。縁戚に男爵家を持つ旧薩摩藩家老家という肩書はあまりにも重たい。廃れた名誉の回復は、至上命題だ。ちなみに、薩摩隼人の血を引くので、私は「衆道」ももちろん嗜む。バイセクシュアルという性的嗜好についてあまり、罪悪感を感じなかったのは、そういう背景を後ろ盾にして、自分を正当化した結果だろう。そんな思春期が始まった。


師との出会い

 高校時代の私はトーマス・マンという人に強く惹かれた。1875年ドイツのリューベックに産まれたマン家の次男である。詳しくは別のストーリーで触れることにしようと思うが、豪商の家に産まれ、祖父、父と市の栄典を浴びつつも、祖父の代に一家の栄光は絶頂を迎え、父の代を最後に没落していった一家の人である。彼と兄のハインリヒは、市民的生活の栄光と衰退のはざまで芸術の火を灯しドイツ文壇に不動の地位を得るに至っている。私にとって、彼の生い立ちは非常に共感できるものであったし、変わり続ける時代のただ中で、芸術家として生きた彼の姿勢を人生の指標とした。とりもわけても、両性愛を匂わす『トニオ・クレーガー』に描かれている作家の自画像は、私自身の思春期の鏡にすら思えたし、『ヴェニスに死す』のグスタフ・フォン・アッシェンバッハはこれから自分が辿るであろう苦難の道の水先案内人のように思えた。

 彼との出会いがなければ、文士として生きることを考えることはなかったであろうし、こういった回りくどい文章も書かなかったはずだ。ここで会ったが百年目である。あとは、黄泉平坂をブレーキもかけずに、自転車で下るかのごとく芸術に関心を寄せることになる。


転機と方向転換と原点回帰

 高校を出てから、拙い小説を書くようになり、もう10年ほど前のことになるが、とある出版社から本を出さないかと言われた。結論を先にいうと、この話は折り合いがつかずに、空中分解した。始めは、「本を出せる」という興奮に身を委ねていたが、計画性のない販売戦略と印税の件でお互いの妥協点を見出すことができなかったので取りやめた。これは、私にとって生き方を見直す転機になった。人生の半分以上を私は芸術について考えてきたのだけれど、「芸術至上主義」ではなく「芸術無用主義」に軸足を置いている自分に気が付いた。壁に絵をかけずとも、人は生きていけるし、トーマス・マンを読まずとも、実生活は送れる。むしろ、そういった「市民的生活」こそ愛すべきものだと思う。とはいえ、生き方そのものを変えることは容易ではない。「芸術は無用の長物であり生活の障壁」だと考えながらも、いまさらブレーキはかけられないのだ。

 しばらく、いろいろな職を転々としていつの間にか某企業の契約社員になっていた。業界シェアは国内最大手の会社だ。順当にいけば、今頃正社員になっていただろうが、これも結論を先に言うと退職している。頭の中でヴァーグナーの交響曲について考えながら、「お前休憩ね、帰ってくる直前に別の子休憩入れるから、いま行って」などと指示を出している自分の姿は実に滑稽だ。「休憩は休符記号という音符だ。楽譜通りに動けないやつは、俺のオーケストラに必要ない」が当時の座右の銘である。これは、アルトゥーロ・トスカニーニという偉大な指揮者の模倣である。25人もスタッフがいて、その大半が業界未経験者で構成されていれば、そういう態度を取るしかない。ちなみに、残り半分の経験者のうち、経験が最も浅いのが私だった。皮肉な話だが、ここで父親譲りの商人の血がボヘミアン的生き方と不格好な融合を見せて、あれよあれよと言う間に出世してしまった。私は出世せず、静かに暮らしたかっただけなのに。部下の数が70人近くに膨れ上がった頃、私はとある女性と知り合った。彼女と結婚することに決めて、再三断り続けていた本社勤務を受諾した。平和で穏やかな「市民的生活」へと方向転換をはかったわけである。そして、彼女には自分の生き方を変えるだけの価値があった。筆を折り、指揮棒を置いて、婚姻届けに判を押した。いざ、本社勤務を始めると、それまでの休日が平日休みから、暦通りに変わる。仕事の日には仕事をし、休みの日には部下から電話がかかってくるといった具合だ。一年半ほど勤めてから、「これはいかん」と思って、辞めることにした。わざわざ私に休みを合わせてくれている妻と過ごす時間がまるでない。「営業成績1位」という実績を残して、辞表を出した。そして、妻は離婚届を私に出してきた。何もかもが、遅すぎたのだ。

 その後、深刻なうつ病を患って自殺を考え始めた。あまりにも深刻な状態に陥ったので、妻は一定の距離を置きつつも私を精神科に連れて行ってくれた。それが、2年前の初夏のことだった。彼女のおかげで一命をとりとめ、改めて関係を見直すことにして、離婚を受け入れ、今後のことを話し合うことができるまで、表面的には回復した。そして、8月15日私は「無条件降伏」を受け入れ、婚姻関係を解消した。彼女が恣意的にこの日を選んだとは思えない。いまでは笑いながら「終戦記念日に離婚するなんて」と言えるが、当時は自分たちのことで回りが見えていなかった。それからしばらくして、彼女は結局去っていった。ここに「武家の家長」として、子孫を残すという希望が潰えたのである。弟に期待をしたいところだが、婿養子になったらどうしたものかというのが最近の悩み事である。ともあれ、彼女がいまどうして過ごしているのかを、私は知らないが、これで良かったのだと思っているし、彼女が幸せであれば、私は幸福だ。私はバイセクシュアルではあるが、古風な日本人的な思想が脳みそにこびりついているので、「結婚するとなったら一生添い遂げるものである」と考えている。時代遅れなのは承知だが、いまだに彼女ほど自分の人生をかけて思った人はいない。けれど、生き甲斐をなくした虚しさは簡単に埋められるものではない。そこにいて当然だと思う人の不在が、原点回帰に舵を取るよりほか、なんの選択肢も与えてくれなかった。友人にことの顛末を話したところ、「自伝でも書いたら」と言われたので、再び筆をとることにした。

 散り散りになっていた「芸術」と「商売」と「市民的生活への憧憬」が繋がったのだ。


8月15日

 1945年のこの日は、「玉音放送」によって戦争行為の停止が示された日である。父はその後の20世紀を生き抜いた人であった。

 2013年のこの日は、私と前妻の離婚届が受理された日でもある。私はこれからの21世紀をたとえ何が起ころうと生き抜こうと思う。

 折しも、国内では「集団的自衛権」の議論や「川内原子力発電所再稼働」というニュースが飛び交い、国際情勢はさながら20世紀の地雷を踏んだかのごとき荒れ模様だ。

 いまこのストーリーをまさに書いているところで、下の階に住んでいる二家族が「愛車のバイク」や「新しく飼い始めた子猫」と同列で「自衛隊」や「天皇制」について話をしている。彼らは、バーベキューを始める準備中だ。このストーリーの清書が終わったら、ビールを差し入れに行こうと思う。10代、20代、30代、40代の世代が肩を並べて「戦争は反対だ」と言っている。「戦後70年」不戦を貫いてきたことに矜持を持ち、武力ではなく外交努力による平和を、さらに10年、20年、30年と続けてゆくことこそ、今を生きるわれわれの責任ではないだろうか。「戦争体験者が減り、語り継ぐことが困難になっている」という言葉を聞くたびに、私は違和感を覚える。それは、戦争がその間に起こっていないことの裏返しなのであって、悲劇的結末ではあったものの、われわれが、戦争行為を停止していることの証左だ。私の父や、恐いと噂の玩具屋の店主が味わったであろう恐怖を体験していないのは、もちろん国民にとって幸福なことなのである。私は、私の父が軍需工場で作った武器弾薬が、どこかの誰かの命を奪ったのだと考えるようにしている。権力を掌握していた軍国主義者のせいだったと、誰かや何かに責任を押し付けるのではなく、父にも責任の一端があると考えると、当事者意識が強くなる。実際、私にとっては、一世代前の話なのだ。

 スケールはかなり違うかもしれないが、8月15日は、親子二代にわたって衝撃的な出来事が起こった日なのだ。私は、「戦後70年」、「離婚2年」を迎えた今日この日に文士として個人事業主登録をし生きていくことに決めた。「戦争も離婚もしない方がいい」毎年、この日はうんざりするような暑さの中でそう思うからこそ、あえてこの日を「開業日」にしたいと強く思う。「嫌なことがあれば、いいこともある」と信じたいからだ。

 この20年の間に、2つの大震災によって街を崩され、大切な誰かを喪ってなお、外側へと不満の矛先を向けず、倫理的行動がとれる、いまの日本という国が、「千代に八千代に」続いてくれればと思うし、そうすべく努力をしてきた先人たちのことを誇りに思いたいと思う。ちなみに、「君が代」の「君」は、私にとっては別れた妻の意味である。



     


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