オータムブリーズ(強い人)

オータムブリーズ(強い人)
  腕力が強いことは、意味があるのか。
 最初に強さに憧れたのは、小学生の頃だった。おそらく、「柔道一直線」や「アニマルワン」が最初だと思う。メキシコオリンピックの頃のこと。

メキシコシティオリンピックは、1968年 10月12日 から10月27日 までメキシコ の首都メキシコシティ で行われた夏季オリンピック である。

  
 小学5年生の私には、ヒーローだった。自分も強くなりたいと思った。しかし、北勢中学校には「柔道部」も「レスリング部」もなかった。それで、体操部に入るしかなかった。
 高校時代は勉強ばかりだったので、名古屋大学に入学したら「少林寺拳法部」に入部した。柔道は高校の体育の時間でウンザリしたし、空手は型がダサイと感じていた。
  素人から見て一番実践的に見えたのが少林寺拳法だった。それに、格闘技特有の暴力は嫌いだった。その点、少林寺拳法は仏教のお坊さんが始めたらしいので精神的な教えもあるだろうと期待した。


 
 「燃えよ、ドラゴン」https://youtu.be/lRNwkkDAN6E
 そこで、決定的な経験をした。「燃えよ、トラゴン」を見てしまったのだ。それは、今までに見たテレビの格闘技番組と根本的に違った。俳優は、アクションつまりニセモノだけれどブルース・リーは本物だった。それで、ひたすら練習に励んだ。
イメージ 3   四国の多度津の本部での合宿では、宗道臣に会った。そして、卒業するまでに黒帯、二段をとった。阪大での試合でも、ある程度は自分が強くなったと確信した。
  たぶん、暴力を恐れない気分が出来つつあった。
あまりにもブルース・リーの影響が強かったのだろう。俳優養成所に通い、テレビ局に打診してみた。当時人気のあった「TVジョッキー」にジャッキー・チェン出演する時に、引き立て役のように出演した。

 私は見かけも話し方も優しいので、意外だったらしく周囲の人には見直された。

 TVジョッキー→ https://youtu.be/sMdPLgzTjeQ

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  しかし、肉体的に強いことは意味があることだろうか。暴力で相手を制圧しても、相手が傷ついたら犯罪になってしまう。大体、暴力ではなくて法的、社会的に相手を制圧する方がカッコイイ。

  この頃に、アントニオ猪木が異種格闘技戦を始めた。モハメドアリと戦った。
1976年 (昭和51年)6月26日 に行われた、新日本プロレス の企画した「格闘技世界一決定戦」の内の一試合。当時の日本のプロレス 界のエースであるアントニオ猪木 と、ボクシング 世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリ による世紀の一戦と騒がれた。試合会場は日本武道館
  寸止め空手や、カンフーの踊りのような動きに疑惑の目をむけていた若者は、同時期に表れた極真会館のフルコンタクト空手に魅了された。やはり、実証的でなければ説得力に欠ける。
 「空手バカ一代」はマンガも映画もヒットした。これが、後の「K-1]ブームにつながっていく。

イメージ 2   アメリカで教師をやる時に日本紹介の時間でも体育の時間でもカラテを求められた。ヌンチャクが使えるためにずいぶんお呼びがかかった。  

  それだけではない。自分で塾を開いて痛感した。ロクでもない生徒に何度怒鳴りつけたことだろう。怒って机を叩いたら拳の形に穴があいた。たぶん、気合いに生徒がビビったのだろう。悪い生徒をコントロールするには役立った。私は今でも拳法の練習をしている。
棒術、ヌンチャク(音がでます)

 「葉隠」をご存知だろうか。最近のアスリートは知性のかけらも見られない人が多い。相撲では、暴行死の事件があり、ボクシングの亀田兄弟、柔道の金メダリストにして生徒に強姦した内柴選手。アントニオ猪木選手も知的とは思えない。

  こういうことが重なると、自分が格闘技をやっていることを口にしにくくなる。

  
  アントニオ猪木の始めた「強ければいい」という路線は、そろそろ限界を迎えている。肉体だけの人間は、粗暴な凶悪犯や獣と何ら変わりないということが知れ渡った。そんな人間はヒーローになりえないのだ。
  頭のよい格闘家。それが、今の目標。
  新渡戸稲造の「武士道」の第二章。


第二章 武士道の淵源(Sources) of which I may begin with Buddhism.  まず仏教との関わりから始めることにする。  It furnished a sense of calm trust in Fate, a quiet submission to the inevitable, that stoic composure in sight of danger or calamity, that disdain of life and friendliness with death.  武士道には、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にしたときの禁欲的な沈着さ、生への不執着、死への親近感が見て取れる。 A foremost teacher of swordsmanship, when he saw his pupil master the utmost of his art, told him, "Beyond this my instruction must give way to Zen teaching."  或る剣術の達人(柳生但馬守)が、門弟に技の極意を教え終わった時、次のように告げている。「これ以上の事は余の指南の及ぶところでなく、後は禅の教えに譲らなければならない」。  "Zen" is the Japanese equivalent for the Dhyâna, which "represents human effort to reach through meditation zones of thought beyond the range of verbal expression. 禅とはディヤ―ナ(Dhyâna)の日本語訳であって、それは、「言語的表現の範囲を超えたる思想の領域に瞑想をもって達せんとする人間の努力を意味する」ものである。  Its method is contemplation, and its purport, as far as I understand it, to be convinced of a principle that underlies all phenomena, and, if it can, of the Absolute itself, and thus to put oneself in harmony with this Absolute.  その方法は黙想による熟考である。しかしてその目的は、私が理解する限りでは、全ての現象の底に横たわる原理、能うべくんば絶対そのものを覚知し、かくして自己をばこの絶対と調和せしむるにある。 Thus defined, the teaching was more than the dogma of a sect, and whoever attains to the perception of the Absolute raises himself above mundane things and awakes, "to a new Heaven and a new Earth." かくの如く定義してみれば、この教えは一宗派の教義以上のものであって、何人にても絶対の洞察に達した者は現世の事象を脱俗して覚醒し、「新しき天と新しき地」の境地に至る。

 
  私は「葉隠」や「武士道」に見られる倫理観を全ての格闘家が持つべきだと思う。少林寺拳法は、昇段試験の際に仏教の教えに関する筆記試験もある。最低限、その程度の配慮は必要だ。
人の手は殴るためにあるのではなく、人の足は蹴るためにあるのではない。ところが、日常生活の中で暴力がしばしば見られる。それは、肉体的な暴力だけでなく、言葉の暴力も含まれる。
  受験でも闘争心や忍耐力は必要なのだ。その訓練に、格闘技は有効なのだ。テニスやサッカーと異なり、拳法は人間に相対する。それは、結構コワイことなのだ。
  殴り合い、蹴り合いをする相手と面と向かうのは訓練を積んでも恐ろしいものだ。だから、その恐怖のコントロールが必要となり人間性が深くなる。実際、塾経営で嫌がらせも多いが私は犯人を見つけ出して思い知らせるようにしている。
  これは、
「叩き伏せないと、反撃される」
  という格闘技の原則だ。

  肉体的には40代を過ぎると衰え始める。今は、主に健康のために拳法の練習をしている。私はクリスチャンだが、どうも宗教方面より勉強方面の方が人を論理的、実証的に考えるようにする気がする。
  だから、格闘家に三角関数や微積分を教えるのが有効な気がするが、夢物語だ。そんな指導者がいるわけない。


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