「高木教育センター」の、ありふれた日々

3 / 8 ページ

 

「この仕事を始めてよかった」

 私にそう思わせてくれた塾生の子は多いが、彼女はダントツの存在だった。

 

 A子ちゃんは家庭環境にも、経済的にも恵まれていなかった。多くの生徒は、過酷な環境に置かれるとグレるか性格が歪む。しかし、彼女は厳しい環境を自分を育てる肥やしにできる稀な子だった。

 

「政策金融公庫と奨学金と私のバイトで何とかする」

 そういうA子ちゃんだった。そして、ある時ボソっと

「お母さんが生命保険を解約するって・・・」

 と小さな声でつぶやいた。しかし、その目には絶対に合格するという覚悟が見えた。

 

 そんな貴重なお金を塾に提供してくれるのだから、リキを入れないわけにはいかない。損得勘定などなかった。何としても合格してもらわなければならなかった。彼女が多くの患者さんを救うことは間違いない。待っている人がいっぱいいる。

  

  私は中学・高校時代を通じて、A子ちゃんと言えばジャージと思っていた。たまに制服で来てくれたけれど、女子度はゼロ。可愛い髪飾りを付けるでもなく、フリフリの洋服を着るでもない。もちろん、髪振り乱して勉強ということはなく、清潔にしていたけれどファッションに時間も金もかけるヒマはなかった。

 

  女子に「質実剛健」という言葉はおかしいのだけれど、A子ちゃんにはピッタリの言葉。私は戦前の教育は知らないけれど、両親を見ていて想像はついた。歴史小説に出てくる一昔前の大和撫子。

 

 これは偶然ではない。今、私の塾に各中学校のトップクラスの生徒が何人もいるけれど、理系女子はほとんど女子度ゼロ。平均的男子より理路整然と話す。そして、質実剛健。日本の未来は明るいと思わせてくれる。

 

 A子ちゃんは、その後「国立大学医学部」に現役合格して「旧帝の大学院」で学び、現在は研究職に就いている。私はA子ちゃんを長く見ていて思うことがある。

 

 A子ちゃんは気づいていなかったが、当塾では彼女の指導から生まれた教材群のお陰で、その後なんと「京大医学部」合格者が3人も続出した。私の塾の救世主でもあったのだ。

 

 現在の日本では、道を外れたギャル、ヤンキー、暴走族あがりの生徒や講師をもてはやしお金がそちらに流れる構造が出来ている。しかし、本当はA子ちゃんのように目立たなくても人々の役に立っている、道を外れない子にお金が流れるべきではないか。

第三章

「数学のはじまり」

数学に対する執着は残っていた。

最初に

「ボクは数学が苦手なのだろうか?」

  と疑問を持ち始めたのは、四日市高校の2年生の頃。1970年代の四日市高校は男子の割合が大きく、男子クラスがあり私は男子クラスに在籍していた。

  当時、男子は理系に進むのが大多数だった。その中にあって、テストの度に数学が壊滅的な点数になっていた。全国の模試なら、そこそこでも四日市高校の男子クラスではどうしても周囲の子と点数を比較してしまう。平均点と比べてしまう。

  点数だけでもない。三角関数、対数、微積分と進むにつれて

「もうボクの頭には入りきれない」

  と友人にぼやいていたのを思い出す。物理で13点を取り、

「こんなのありえない!」

  とショックを受けて、クシャクシャにして捨ててしまった。私は数学の公式を使う場合に、

「証明できないと、使う気になれない」

  というタイプだった。今思うと、それでは前に進めない。結局、自分が何をやっているのか分からなくなり気持ちが混乱し始めた。そして、1974年の大学受験の5日前を迎えた。

  2階の勉強部屋で数学の勉強をしていたら、突然手足が震え始めて椅子からズリ落ちてしまった。そして、

「お父さん、ボク変だ」

  と叫んだ。二回に駆け上がって来た父は、ひっくり返った亀のように手足をバタバタしている私を見て

「お前、何をしてんだ」

  と言った。そして、近くの総合病院に担ぎ込まれた。

  病院の看護婦さんは、私の手足を押さえつけながら

「アレ?高木くん、どうしたの?」

  と言った。北勢中学校の体操部の先輩だった。

  診断は、神経衰弱。いわゆるノイローゼとのことだった。私は頭が狂うことを心配したが、医者が言うには

「そういう人もいるが、身体に症状が出る人もいる」

  とのことだった。

  そうした経験を通して

「自分は、どうも文系人間らしい」

  と覚悟した。それで、名古屋大学「教育学部」で勉強している時に

「自分は先生かなぁ」

  とボンヤリ思っていた。それで、卒業後は英語講師として勤務を始めた。数学に触れるのは、自分にとってタブーになっていた。それから、20年ほどひたすら英語の勉強をしていて数学は求められて中学レベルだけ指導をしていた。民間では、英語講師だけでは仕事が得られないのだ。

  ところが、自分で塾を始めると

「明日は理科なのに、英語の授業ですか?」

  と生徒から文句が出始めた。それで、英語、数学についで、理科、社会、国語の指導もせざるをえなくなった。

  そのうち優秀な子が来ると、高田、東海、灘、ラサールなどの難関高校の数学の過去問にも手を出さざるを得なくなった。そして、ある日気がついた。

  そういう優秀な子は

著者のキョウダイ セブンさんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。