安彦良和の「イエス」とオスカル・ロメロ神父の話

ブックオフで安彦良和の「イエス」を格安にて購入し、読了。

話はいきなり逸れるが、2015年5月にカトリック教会にて列福されたオスカル・ロメロ神父は、もともとは「本の虫」と呼ばれるほど世情に疎く、どちらかと言えば保守的な人物であったという。

内戦が続くエルサルバドルの首都、サンサルバドルにて1977年にかの地の大司教に任ぜられたときも、政治的な発言を慎重に避け、教会の中立を宣言することで、間接的に極右軍事政権を擁護した。毒にも薬にもならぬ「本の虫」である男の大司教就任を政権側は冷笑をもって歓迎し、左派活動家は失望の溜息を漏らした。

この、「本の虫」が明確な軍事政権批判を展開したのは、かつての師であったルティリオ・グランデ神父の血まみれになった遺体を前にしてからのことだっという。グランデ神父は、軍事政権側に弾圧される小作農民側に立って「政治的な」活動を行ったとされ、暗殺された。

当時、軍事政権による苛酷な収奪と弾圧を見るに見かねた聖職者の中には、民衆による抵抗運動に身を投じるものがいた。これが時として神の存在を否定するコミュニストとさえ手を組み、限定的な武力行使も辞さない「解放の神学」と呼ばれる運動である。

軍事政権側は、聖職者が民衆を扇動し、国家を混乱させているとして、これを徹底的に弾圧した。「愛国者であるならば、神父を殺せ」というスローガンが町や農村のいたるところに書き殴られ、CIAの支援を受けた暗殺部隊が抵抗運動の要である聖職者の暗殺を繰り広げた。グランデ神父もこうした暗殺部隊の凶弾によって倒れた。

ロメロ神父は、当初、抵抗運動に身を投じる神父たちを教会の中立を危うくする存在であると苦々しく思っていたが、グランデ神父の遺体を前にした時、彼の中で何かが変わった。

カトリック的に解釈すれば、この時、ロメロ神父の前を神が横切った。

神は時として、人に「何か」を見せるときがあるという。一般的にはこれを啓示というらしい。つまり、神はある人に「何か」を見せ、「私は、これを見せた。さあ、これを見てあなたはどうするのか?」と問う。

あるいは、故人の意思を別の人間が引き継ぐことを、いわゆる復活と解釈することがある。肉体的には滅びたグランデ神父の霊性は、ロメロ神父の霊性に引き継がれ、これを復活と考える。復活とは、死んだ人間が生き返ることではなくて、その意思が他者によって継承されるという立場である。遠藤周作の復活もこれに近い。

聖書の中で有名な逸話はローマの徴税請負人であったマタイの例があるが、とにかく、時として神は、人に「何か」を見せるときがあるという。その何かを「見せられた」、つまり、神に横切られた人は、それをどうしても見なかったことにすることはできず、悩み、苦しみつつも身命を賭して自らの信仰を貫き通すことになる。

ちなみに、僕が好きな吉祥寺教会の老神父も、若き日に教会で祈りを捧げていたときに顔面をはたかれるような「風圧」を味わったという。これが、彼の前を神が横切った瞬間であったと言い、その後、神父になったことを後悔し、いつか辞めよう辞めようと思いながら80歳を越してしまったという。

とにかく、その後、ロメロ神父はサンサルバドルの大聖堂を弾圧から逃れてきた人々に開放し、軍事政権側に弾圧の即時停止を呼びかけるようになる。さらに、こうも言う。

「弾圧によって、神父やシスターたちが命を落とすことは、むしろ喜ばしいことです。それは、教会が苦しむ人々の間にいるという証拠なのですから。この恐怖の時代に、教会だけが守られ、苦しむ人々に手を差し伸べられていなかったとすれば、それこそが恥ずべきことであり、悲しむべきことでしょう。」

そして、1980年、彼自身もミサの最中に政権側の狙撃者の凶弾に倒れる。カトリック教会の2000年余りの歴史の中でミサの最中に殺された聖職者は、後にも先にも彼一人だという。

前置きがずいぶん長くなったが、自らもクリスチャン家庭に育った作者である安彦が描き出すイエス像は非常に興味深い。

ゲッセマネの園でのイエスの捕縛とゴルゴダの丘での処刑は、当時のローマ帝国属州であったエルサレムでのイエス一派の稚拙な武装蜂起が露見した結果であると解釈し、弟子の暴発を制御できないことを悟り、運命に身を任せる聡明なイエスを描いている。

そのイエス像は、非常に俗な話であるが、後世の人に「あれは部下との情死」であると評された、西郷と高弟たちの蜂起である西南の役を想起させる。失敗は目に見えていながらも、高弟たちの暴発を制御できず、むしろ弟子たちに引きずられる形で死んだ西郷。

作者は、イエスを死の真相をこのようであったと解釈する。そして、その後の復活は弟子たちの「創作」であるとし、これが一種のファンタジーとして流布されていったことを一種の「狂信」である喝破する。

そして、イエスとは、当時政争と暴力に明け暮れていたエルサレムで、人々の救済について悩み抜いた、無力な一人の宗教家だったと論じる。この解釈は、信仰を持たない者としては理解しやすい。安彦はさらに言う。

「殉教という死は、例え愚かでも盲目的でさえすれば可能だからです。」

やはり、ロメロ神父も愚かで盲目的であったのだろうか?「神父やシスターたちが命を落とすことは、むしろ喜ばしい」とまで言わしめるのは、狂信の為せる業だろうか?

カトリック教会の批判として、よく挙げられるのは、確かに貧しきもの、弱き人々の側に立つということはあるが、社会の構造を根本から改革し、そのような人々の生活を変えていくことに貢献していないと言うものがある。

それは、貧しさに寄り添いつつも、一方ではそれに依存し、その貧しさによって存在を肯定され光り輝くカトリック教会像である。フィリピンの状況を見るにつけ、この解釈には否定できない部分がある。豊かになった人々が信仰を必要としなくなることからも、それはあながち間違いではないと言えるだろう。

この話には、結論はない。

とにかく、安彦のイエス像とロメロ神父の生涯は全く交差しない別次元の出来事のような感じがした。イエスは、弟子の暴発を押さえられずに死に、弟子たちは師の真意を知ることもなく、ファンタジーを創作し、その延長線上にロメロ神父の殉教がある。

たぶん、現実的にはもっともすっきり理解できるシナリオであるが、それではあまりにも虚しい。世界のすがた、成り立ちはすべからくこのようなものであるのであろうか。まさに諸行無常、一切皆空である。

それでも、人は何かしらの「物語」を求めてやまない。

それは、錯誤と盲目による行為ではなく、確かに、信仰と献身によって彩られた行為であったと思い込みたい。

これは、一種の欲望だろうか、あるいは人が生きて行く上で欠かざるべき「何か」なのだろうか?もし、そうだとして、その「何か」とは一体何だろうか?

そして、その「何か」によって突き動かされ、生きている(生かされている)人間とは何なんだろうか?

なぜ、人は無意味であることに耐えられないのだろうか?

そして、その時の「意味」とは、一体何なのだろうか?

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