第三十二章 あっち側と、こっち側
第三十二章
「あっち側と、こっち側」
大学を卒業して、刈谷のある塾に勤務することになった。昨日まで教壇のこっち側に座っていたのに、今日からはあっち側に立つことになった。研修など一切なく、いきなり授業をしろとのことだった。後で分かったが、教師や講師の仕事は自動車運転と違う。手取り足取りしても無駄。道路とちがって生徒の反応はまちまちなので、全てが臨機応変なのだ。
もっと面食らったのは、自分の塾に四日市高校や暁6年制の特待生が来てくれた時のことだ。私は四日市高校から京大「医学部」に合格した同級生がいた。彼とは、同じ北勢船で通っていたので親しかった。でも、彼はあっち側の子で、私はこっち側の人間だと思っていた。上位の1ケタ順位に入る子は別格の子たちで、自分がどんなに頑張っても手が届かない遥かなあっち側だった。
私は何がなんでも追いつこうとジタバタしたあげくに、身体に変調をきたし入院騒ぎを起こしてしまうほどだった。英語が多少得意というだけで、運動も、芸術も、なにも取り立てて優れた長所がないので
「これでは生きてゆけないなぁ・・・」
と途方に暮れた。でも、生きてゆかなければならない。塾で指導しながら帰宅後は英語の勉強に明け暮れた。それで、30歳の時に英検1級に合格した時は驚いてしまった。三重県で1人か2人しか合格しないことを知っていたからだ。私は、そんなあっち側の人間ではないと信じていたからだ。
そして、気づいた。あっち側とこっち側なんて存在しないってこと。英検1級に合格はしたけれど何も変わらなかった。私はバカのままで何も悟れない。経済的に裕福になったわけでもない。賢い塾生の子たちからの信頼感が多少は改善された程度のこと。
ところが、この権威の否定というか心理的な壁の崩壊は後の人生に大きな影響を与えることになった。壁がないのだから、とにかく進めば何とかなる。そんな楽観的な人生観が生まれた。
自分が文系人間だと信じていたが、塾生の方から
「高校数学の指導もお願いできませんか?」
と依頼された時も
「何とかなるだろう」
と引き受けた。結局、10年ほどジタバタした末に京大二次試験で7割のレベルまで到達したことを成績開示で確認した。今では小さな頃に記号の羅列にしか見えなかった英語が日本語と同じように読めるし、中学時代に無意味な記号の羅列にしか見えなかった微積分の数式を自由に操れるようになった。
あっち側と思っていた世界が、いつの間にかこっち側になっていた。いや、そんな壁などもともとなかったのだ。
日本では高校で文系と理系に分けて指導する。社会では勝ち組と負け組みに分けられる。それは、仕方ないのだ。みなさんも
「あのラーメン屋はうまい。こっちは不味い」
と分けるはずだし、病気になったらやぶ医者より名医にかかりたい。平気で分類する。
私の亡くなった父は町の靴屋さんだった。私は生まれた時から商売人の息子だったから繁盛する店や人気のない店に敏感だった。だから、学校や塾でも上位層や底辺層に分けたりランキング付けをすることが当たり前だと思った。
それが、北勢中学校に行ったら
「順位は教えない。それは差別につながるから」
と言われてビックリした。なんという綺麗ごと。あまりに社会の実情とズレた説明。だから、私は教師の言うことなど耳を貸さなかった。中学三年生の夏休みには、学年主任に電話して宿題はやらないで自分の選んだテキストで勉強すると宣言した。
差別と騒ぐのは、徹底的にやらない中途半端なことをするからだ。私は文系人間に分類されたけれど、今は数学Ⅲを指導する数学講師でもある。塾生には毎年「京大医学部」を受験する子がいる。
こっち側だと思っていたけど、あっち側に入って指導している。そもそも、そんな分類など意味がない。不味いラーメン店も、研究を続ける意欲があれば旨いラーメン店に返信することも可能なのだ。
本当の平等とは、徹底的にやる競争のもとで生まれる。それなのに、競争そのものを否定するのは現実に無知だから。
あっち側とこっち側、文系と理系、勝ち組と負け組み。それは、固定したものではない。その壁はみんなが思っているほど高くない。高いと思ったり、壁が絶対と思うのは自分の心の問題であって、誰かのせいではない。誰かの分類を受け入れる必要もない。
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