高木教育センターのありふれた日々(4)

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ダメな予備校は暴走族講師とか大きなビルで話題を狙うが、勘違いも甚だしい。私はそんなものに釣られる生徒は要らない。難関校合格の見込みがないからだ。そして、その生徒の性格や基本的習慣はどうやって形成されるのか。そこに、保護者の存在がある。

 若い頃は気づかない。私は大学で合コンで馬鹿さわぎをしている時、両親が親戚に頭を下げて借金をしていることを知らなかった。卒業して働き始めたら生活レベルが落ちて不満に思っていたが、その頃父親も母親も借金の返済で大変だったことを知ったのはずっと後のことだ。親不孝だった。

  でも、自分が親になって分かったが私が一生懸命に勉強して四日市高校、名古屋大学と難関校に合格していったので無理してでも助けてくれたのだろう。そして、一生懸命に勉強した理由は、おそらく商売人だった両親が日々一生懸命に働いているのを日常的に目にしていたかららしい。

  小さい頃から、その両親の期待に応えたい思いも強かったのだ。今、受験指導をしながら思うのは保護者の存在の大きさだ。モンスターペアレントの子供はたいていダメな典型の子だった。

 学校や塾がいくら進化しても、親にはかなわないのだ。

よろしくお願いします。

 

第三十五章

「日本一の受験マニア

 私はアメリカから帰国して自身満々で英検1級を受けに名古屋に向かった。だって、受験勉強ではノイローゼで倒れるまで勉強した。大学ではLL教室に通い、帰宅後はECCに通い、NHKの番組を見て、アメリカで1年間勉強した。受験勉強では名古屋大学に合格し、英会話ではアメリカで生活に困らないレベルまで引き上げた。

 これで落ちるわけがない。ここまでやった人はいない。100%の自信があった。それなのに、落ちてしまった。信じられなかった。心が折れそうだった。

「英検なんか本当の英語力をはかってない!」

 と周囲に八つ当たりをしていた。しかし、途中でやめるわけにはいかない。それで、これで最後だと思って翌年受けてみた。それで、筆記試験に合格した時は

「これで合格した」

 と内心確信した。なのに、合格するはずの二次試験で落ちた。信じられなかった。もうダメだと思った。それまでに、持っている時間もお金もすべて英語の勉強につぎ込んでいた。子供が生まれて自分に投資する余裕がなくなっていた。

  しかし、筆記に受かると翌年は筆記が免除だったのでダメもとで面接試験だけ受けに行った。そしたら、合格した。もう一回受けたら合格する気がしない。その後も、通訳ガイドの国家試験、国連英検A級、ビジネス英検A級、慣行英検1級などに合格したわけだけど、どれもこれも失敗の山が築かれた。

 今だから笑って公開しているが、39通の「合格」「不合格」通知は機械的に受けていたわけではない。その都度「もうダメだ!」と心が折れそうだった。「もうやめよう」と毎回思っていた。しかし、何も分からない娘たちの顔を見ていたら父親として折れるわけには行かなかった。

 「落ちた!」「もうだめ」「こんなバカな」「もうやめた」「もう一回だけ」「こんな知名度の低い資格は要らない」「こんな父親ではマズイ」「受かるヤツいるのか?」「こんな資格なくても中学生の指導はできる」「でも、今を外すと一生ムリかも」。こんな繰り返しで10年ほど過ぎた。

  これは、京都大学を受ける時もそうだ。まずは、Z会の「京大即応」コースを始めた。真っ赤になって戻ってきたから、最初は

「スゴイなぁ」

 と思った。しかし、2年、3年と続けて気づいたことがあった。それは、人間の脳が一度に10以上の情報の処理はムリということだ。

アイエンガ―という人の研究からわかったことなのですが、人は選択肢が多すぎると、選択する事すらやめてしまう。それも無意識的に。沢山あると選択肢の区別が難しくなるためにこういうことが起こると考えられています。

 真っ赤になるほどの訂正をされると、もはや間違いを見直す気さえなくなり学習効率が落ちるのだ。それで、私が自分で添削を始めた時はポイントを出来るだけ絞るようにした。ある程度の学力のある子は、その学習効果に気づいたらしく最後まで継続してくれた。

 ところが、ダメな生徒は添削者が汗をかいて訂正だらけになると高く評価する。時には、私の訂正が少ないことを手抜きだと非難する人もいた。そういう人はもちろん怒って途中でやめてしまう。

 河合塾や駿台の「京大模試」を10回受けた時も大変だった。試験会場は言うまでもなく全員高校生か浪人生。私のような50代のオッサンはいない。だから、目立ってしかたない。教室に入って行くと必ず周囲の目が集まり、視線が痛かった。

 そして、気づいた。赤本の問題より遥かに難しい。これは、自分で塾経営をしていたので事情はすぐに察知できた。本番より簡単な問題を出題して本人に変な自信をつけさせてしまうと、無謀な受験をしてしまう。すると、後で

「模試で合格可能性が高いと出たから受けたのに、落ちたぞ。責任とれ!」

 と突っ込む人が必ず出てくる。だから、必要以上に難問を出すわけだ。和田秀樹さんの「新・受験技法」を読むとD判定、E判定でも合格する子が毎年いる。

  こういう分析をする一方で、

「今日もオジサンは私ひとりだったなぁ」「オレ、一体なにやってんだ?」「こんなことして誰が喜ぶんだ」「ここまでやらなくても生徒の指導はできるし」「このお金を全部別のことに使ったら、何ができるのかな」「こんなレベルの高い数学を必要とするのは1000人に1人か」

  毎回「もう、これでお終い」と思っていた。英語や数学の勉強と受験にかけるお金を塾の宣伝広告費にかけた方が儲かるかもしれない。実際に、英検1級や京大二次で7割の数学を必要とする子など、当時はほとんどいなかった。

  娘たちの顔を見ると、申し訳ない思いがしたものだ。この子たちのためにお金を使い、一緒にいてやるべきではないか。そういう葛藤の連続だった。でも、生命保険を解約までしてA子ちゃんを支えていたお母様のことを思うとやめるわけにはいかなかった。

「旅行に行く時まで勉強なの?!」

  と、もと奥さんに責められた。結局、理解されなかったようだ。バツイチになってしまったから。子供たちに悲しい思いをさせて無念だった。でも、自分では必死で父親と塾長の責務に奔走していたので、ダメ出しをされても何もできなかった。

「こめんね」

  

第三十六章

「下町ロケット

技術者はみんな自分の無力さを知ってるよ!私が今日、娘の事で喜びを感じたのは特許のおかげなんかじゃない。この服のシワをどうやったら簡単に伸ばせるか。ただそれだけを思ってアイロンを創りあげた技術者の想いがあったからだ。例えこの裁判で負けたとしても・・・ナカシマに特許を奪われたとしても・・培ってきた技術力だけは決して奪えない!

 「下町ロケット」は面白かった。銀行はあのまま。私も経験した。調子の良い時は擦り寄ってきて、調子が悪くなると手のひらを返す。大企業も同じこと。傲慢で金儲けだけでロマンがない。例外はあるけどね。

 非難するつもりはない。銀行員は自分では独創的な仕事ができないから銀行員になっている。大企業はロマンではなくて、従業員を養うことが優先する。食うためなら何でもやる。 零細企業だって、ドラマだから感動的なだけで現実は大企業の言いなりで裏切られて夜逃げの上に一家離散なんてよくある話だ。しかし、金儲けに走ると独創的な開発が難しくなる。大きなリスクを取れなくなるからだ。

 TV番組は同じプラットフォームで、同じような俳優さんが演じていることが多い。しかし、ある番組は大ヒットして、ある番組は惨敗する。なぜか。それは、冒険できるか。そこに想いが込められているか。

 私は少林寺拳法の愛好家だ。黒帯を持っている。同じキックやパンチなのに、どうしてブルース・リーのキックは感動を呼び、他の格闘家のキックは感動を呼ばないのか。それは、彼自身が言っている。Emotional content つまり、気合だ。

  受験勉強も同じことで、同じ授業を受けて、同じ問題週を使っているのに学力に大差がつくのは何故か。もちろん、才能の違いはある。しかし、才能など結果の説明に使うだけで最初は分からない。見えない。

 できる子とできない子の違いは、いろいろある。基本的な生活習慣、ポジティブな人生観、豊かな感受性。そして、一番大切な「集中力」。こういうものが揃わないといくらマニュアルを見せても役に立たない。

 ある有名な小学生英会話教室が

「先生になる夢かなえます」

 という女性講師の募集を行っている。ここには、生徒目線がまるで無い。講師になる女性に夢を与えることだけが大切。教室を増やすことだけが大切。つまり、金儲けが大切。

 これも非難するつもりはない。家庭にいる女性に収入の機会を提供する立派な仕事だ。ただ、大人の論理と生徒の論理は違う。生徒には、女性講師が有能か否かが全てであって雇用状況など関係ない。

 コンビニのようにマニュアルどおりの授業、全国一律の教材。これでは一番大切な気合が入らない。工夫の余地がない。コンビニ弁当と同じだ。手料理の良さはない。 大規模化すると、どうしても人間らしさが消える。マニュアル化する必要があるから当然だ。教室ごとの違いが出ると困るので当然なのだが、残念なことだ。

 銀行員や公務員のような巨大組織の一員になると、個人の工夫の余地は全くなくなる。気合を込めたり、全身全霊の情熱を傾けるためには

「失敗したら全てが終わる」

 という過酷な中小企業の環境の方が適している。人生を賭けて勝負に出るリスクが火事場の場火事からを求めるからだ。もし、銀行屋さんが人を見る目があれば惨めな結果にならなかっただろう。肩書きや立場で人を判断するから痛い目をみる

 当塾の特別個人指導クラスは満席だ。地元中学のトップクラスの子や、四日市高校や桑名高校のトップクラスの子ばかりだ。なんで、そんな子たちが大規模校に行かずに田舎の小さな個人塾を選んだのか。それは、賢い子たちは肩書きで塾を見ないからだろう。

第三十七章

「胆管結石と通風の痛み

 病気の中でもっとも痛みの激しいものを挙げると、結石と通風と言う人が多いそうだ。私は両方とも経験している。30歳の頃、授業をしていたら突然脇腹に痛みが走りその場にうずくまり病院に担ぎ込まれた。名古屋の河合塾学園に非常勤講師の職が決まったばかりだったので、病院から手術で1ヶ月ほど勤務できなくなったと電話をしたことを覚えている。

 短期間の入院ですむ腹腔鏡手術を希望したら無理だと言われ、手術を避けて音波で割ることは出来ないか尋ねたら石がバラバラになったら事態が悪化すると言われた。結局、開腹手術になってしまった。ベットの上で身動きできず、寝返りもままならなかった。その時に考えた。

「好きな所に行けて、好きなものを食べられるって最高だなぁ」

  私はもともと酒、タバコ、ギャンブル、女遊びなどとは無縁の生活をしていたが、そうした行為の愚かさを改めて認識した。通風だってそうだ。肉食やストレスが良くないそうだが、ストレスのない生活など無理ではないか。しかし、歩くことも出来ない痛みの中で考えた。

「くだらないことで悩むのはやめた。下らぬプライドや馬鹿な人のことはスルー」

 若い頃は、運動でも勉強でも限界に挑戦し続けて倒れるまでやった。しかし、歳をとったら無理をすると本当に死んでしまう。自然に無理をしない自然な生き方をするようになった。

  10倍の収入があっても10倍食べられるわけではない。100倍の収入があっても100人の妻が持てるわけではない。食欲とか性欲など空しい。金銭欲もむなしい。そういう人生観に変わっていった。

  英語が話せても、数学の問題が解けても、楽しいけれど、それだけのことで誇る気持ちが消えていった。塾講師なので広報はしなければならないけれど、人として才能があるか否かは決定的なものではない。

  勘違いした人が「威張るな!」「バカは教えないのか」「自意識過剰」など罵倒が飛んできても、どうでもよくなった。無礼な人、非常識な人、素行不良の生徒などの相手をしていたらストレスで殺されてしまう。そんな人の相手はできない。罵倒されても、近づくつもりはない。毎日を穏やかに暮らすためには、礼儀正しく、常識を身に付けた人、礼儀をわきまえた生徒だけを相手にするしかない。

 もし、ここに100人の人がいて泳げる人が1人だけなら誰から泳ぎを教わりたいだろうか。もちろん、泳げる人だろう。ところが、人間社会ではそうなっていない。泳げない人の中には金持ちや社長もいるだろう。泳げる人が、ただの農家の人であることもあるだろう。

 すると、多くの人は金持ちや社長という肩書きに引きつけられて泳ぎを教わろうとする。そして、溺れて死ぬ。しかし、賢い人は肩書きやお金など関係なく、その人を見る。だから、溺れずに助かるのだ。

  名誉欲、金銭欲にとりつかれた人の末路は、えてしてそういうものなのだ。私は同情などしない。自滅してください。

 

第三十八章

「私の指導力じゃない

 毎年、塾生の子たちが中学生は四日市高校、高校生は京都大学に合格していくと

「高木先生の指導力はすごい」

 ということになるらしい。卒業生の7割ほどが難関校に合格するようになってから知名度が上がった。でも、それは最初から成績が良い子が集まってもらえるから。また、イマイチの子は途中で塾をやめてしまう。結果的に、本番をむかえる頃には合格するに決まっているような子だけが残っているだけだ。

 私の指導力のせいとは思えない。同業者の方や、学校関係者の方が高い合格率の理由を教材や指導方法にあると思われ尋ねてくることがある。しかし、何も秘密などない。生徒の方がすべてなのだ。

 設問を立てるのなら、

「どうして賢い子が集まるのか」「どういう子が最後まで頑張るのか」

 であるべきだ。前者はよく分からない。たぶん、私が自ら英語の資格試験を受けたり、京大を7回受けたりして実証しているからかもしれない。後者はハッキリしている。性格がまっすぐな子だ。ゆがんだ性格の子では学力が伸びない。続かない。

 たとえば、数学の問題が解けない時の典型的な反応を2つあげると

「こういう問題は、どこに手がかりを見出すべきですか?」

 というのと

「こんなの習ってないからやる必要ないし、出題されない。問題集がおかしい」

 というもの。

 つまり、自分を進歩させよう、自分を変えようとするタイプと、他人を批判し、他人を変えようとするタイプ。後者の他人を批判するタイプの子は、どんな指導をしても満足しないので最後まで残らない。たいてい、志望校には合格しない。

 前者の自分を高めようとするタイプの子は最後まで残ってもらえる。そういう子ばかりが受けるから、私の塾の合格率は高い。お気づきでしょうか。ここに秘密があるのを。

  私は生徒に媚びて簡単な問題ばかりやらせて「スゴイ!」「大丈夫」なんて言わない。塾を去られても指導レベルを下げない。ここには、最悪の場合は塾が倒産することも覚悟の上という強い思いがある。

  自分で勉強してみて分かった。教科書準拠の問題集ばかりやらせる学校。同じ水準の問題ばかりやらせる塾や予備校。それでは難関校の合格は絶対に無理なんです。難関校に合格していく子の勉強法を見れば分かる。学校の宿題だけで満足するタイプじゃない。

 みんな赤本を2周も3周もやっているのだ。「解ける」では満足しない。「制限時間内で、合格点をつけてもらえる解答が書ける」までやり続ける。そういう子たちなのだ。必要なら、好きなクラブも犠牲にする。必要なら、生徒会も趣味も放棄する。友達から後ろ指をさされても気にしない。

  そういう子の背後には多くの場合、支える保護者がみえる。期待に応えるため頑張る。そういう生徒に、他人ばかり責める生徒は絶対に勝てない。そのことが分かっているので、私は指導レベルを下げられない。

 これは、自分でやった人。そういう生徒を指導している人でないと分からない。誰だってクラブはやりたい。誰だって趣味を捨てられない。でも、勉強を優先すべき時はきっちりやる。そういう子だけが「合格」をつかむ。

 

第三十九章

「クールヘッド、ウォームハート」

  cool head and warm heart(冷静な頭と、温かい心)

――アルフレッド・マーシャル

英国の著名な古典派経済学者、アルフレッド・マーシャルが、1885年のケンブリッジ大学経済学教授就任講演「経済学の現状」で述べた言葉。

 勉強ができる子の特徴は、常に冷静で感情的でないこと。微積分の問題を解こうとすると、生徒の反応は2つ。

「数学大嫌い。こんなのやって何になるの!」

 と叫ぶ感情型。その一方で、

「これは、どこから話を始めるといいかな」

 と解法について思索を始めるクール型。私はあまり怒らない。最近はマジメな塾生ばかりになってきたので、以前のように怒鳴る必要がなくなった。オタク型のように言われることもある。

 そういえば、私の指導させてもらっている四日市高校でトップクラスの理系女子は、一般で言われる女子度が低い。一般には、可愛いフリフリのついた服を着た女子特有の言葉を使う女子を、女子度が高いと言う。

 しかし、私の塾に来る理系女子はほとんどいつもダサいジャージばかり。よくて制服。そして、

「アホな男子に告白されて迷惑している」

 と平気で言う。バカにしているのではないですよ。数学の問題を解く時には、論理のみで語る。その延長上で、赤は赤。長いものは長い。そういう事実を客観的に述べているだけ。アホな生徒をアホということに躊躇がない。

 これでは9割の男子は近寄れない。でも、そういう女子は

「無理して結婚する気はない」 

 と言う。中年になった私は、彼女たちが優しいことを知っている。でも、たぶん高校生の男子にはキツイ子に見えるだろう。私も高校生の頃には、東大や京大に合格できるような理系女子は不気味に見えた。

 この歳になると、感情的な人がどれほど問題や事件を引き起こすか分かってきた。クールな頭を持っている人が本当は優しいのだということも分かってきた。痛みで叫びをあげている患者に同情しても始まらない。冷静に観察して、診断をつけ、治療をする人が一番やさしいと言える。私の指導している賢い子たちは、そういう子たちなのだ。

 知性に欠ける人たちは、

「大丈夫だよ。頑張れ!」

 と言うのが優しいと思う。確かに優しいだろう。そういう人も必要だろう。しかし、本当にその患者が求めているのは痛みを止めて治療してくれる人だ。そういう頼りがいのある人はクールヘッドなのだ。そういう人こそが、ウォームハートを持っている。中年の私はそう思う。

  だから、私は受験指導でも「優しく」ありたい。ところが、多くの生徒と保護者は「易しい」問題を扱い、「大丈夫」と言ってもらいたがる。それでは落ちるのに、そう言ってもらいたがる。だから、堕落した塾や知性に欠ける講師はそのように対応する。そして、落ちる。

 人気刑事ドラマ「相棒」(テレビ朝日系)の新シリーズ「シーズン13」が10月から2クールにわたって放送されることが、20日に明らかになりました。水谷豊(62)演じる杉下右京から異例のスカウトを受けて相棒となった成宮寛貴(31)演じる甲斐享が、今シーズンでは新たな成長を見せ、右京との関係にも微妙な変化が訪れるそうです。

超音波の殺人ツールを使えば胸に壊死ができることを軽く見たのが敗因だと、言われる田上。
ビールをコゴクンと飲みほす。
「あれは、失敗作だ。」
顔色が変わる田上。
「失敗作?」
「君のことを雇おうと考える軍事産業の関係者はいないね。」
憤りを必死でこらえるように語る田上。
「あなたが、絶賛した僕の卒論、あれを書いてた頃から考えてたんだ!5年かけて作りあげた。これから改良を加えれば・・・」
「君にはできない。」

 

 こういう経験を繰り返すと

「私がヒントを与えても、真意を理解できる生徒がほとんどいない」 

 と気づく。それでは、自分が今まで勉強してきたエッセンスを次世代に伝えられないではないか。すると、上記の「相棒」の杉下右京が部下をスカウトしたのも、ガリレオの湯川先生が田上にガッカリしたのも納得できる。 自分の技術を後輩に伝えようと思い始めたら、気づいてしまう。継承できるクールヘッド、ウォームハートを持っている若者がなんと少ないことか。絶妙のヒントを与えても

「授業に関係のないことはやめてください」

 と言う生徒に何度会ったことだろう。逆に、ヒントは理解できたけれど自分の出席や金儲けしか考えない生徒もいた。以前はA子ちゃんのような生徒は10年に一人くらいしか出会わなかった。

  しかし、今はそういう生徒が塾に何人もいる。本当に嬉しいことだ。できるなら、そういう子たちの背中を押して人類の役に立つ仕事をできる場を確保させてやりたい。

  私がA子ちゃんのような生徒を一生懸命に合格させようと頑張っていたら

「他の生徒が落ちても構わないのか!」

と言った人がいた。本当に頭が悪い。私が高木教育センターの塾長だ。塾生の合格のためなら何でもする。それは、結果的に塾生ではない子を落とす努力とも言える。ひねくれた人が見ると。左翼の先生によく見られる典型的な偽善者か、視野狭窄の人。なんで、そんな人が先生をしているのか不思議だ。

そんな競争の全否定教師が、運動会でみんなお手々つないでゴールインとか、学芸会で全員主役を持ち回りとか、ありえない教育を展開する。ここ三重県では、業者テスト追放で業者が倒産したし、偏差値追放、順位は本人にも隠蔽するという典型的な左翼教育が蔓延している異常事態だ。生徒が気の毒でならない。

実は、運動会でリボンなどを与えて順位を明確にする学校は少数派だ。東京都小学校体育連盟の調査(1997年)では、都内の小学校の約8割は、運動会で子どもたちの順位をつけないようにしている。ゴール前で手をつないで一緒にテープを切らせたり、足の遅い子には距離の短いコースを走らせるなどの工夫もしている。

ときどき洗脳されてしまった生徒や保護者が塾にやってみえる。とても受験指導ができない。受験とは、競争そのものなのだから。そういう方は、オリンピックの金メダルも、学問もノーベル賞も、文学の芥川賞も、音楽のレコード大賞も、すべて「差別」に見えるのだろう。

子供たちをダメにしたいのか?妄想ではなくて現実を見ると、社会主義の親玉だったソ連はとうの昔に崩壊した。生き残っている社会主義の国は、北朝鮮や中国やキューバ。こういう国がユートピアで、国民は西欧諸国や日本より楽しい生活をしているのだろうか。人権が守られているのだろうか。

 これからの国際社会で、息子や娘たちが生きていくためには受験だけでなく就職試験や、その後の企業間競争に勝ち抜いていく力をつけてやらなければならない。私は後継者になれるような子に、自分の技術を伝えていきたい。

 そうでなければ、死んでも死に切れない。

 

第四十章

「Bくんのこと

 私の大学時代の友人にBくんというのがいた。医学部だから頭は良かったが、

「医者はええなぁ。女のパンツの中が見放題やもんなぁ」

 と公言する変態だった。彼は早熟で、大学時代に親に内緒で同棲していた。大人だった。詳しくは知らないが、相手は看護婦さんらしかった。彼は、私の目には遊び人だった。

ところが、ある時からその女性が彼の周囲から見えなくなった。話を聞くと別れたという。彼女が二股をかけていたそうだ。もう二度と女は要らない。これで清々した。勉強に専念できると言っていた。

私も似たような経験をしていたので、話が合ったのだ。私が自分の経験談を同級生の女子に話すと

 

「別の男を気にするなんて、高木くんちっちゃい」

 と言う。とても、ついていけない。

「ボクは女性とうまくやっていけないのではないか」

 と思った。

 それから7年後に結婚した。自分としては頑張ったつもりだったが、結局バツイチになった。悪い予感が的中してしまった。結婚してから14年目のことだった。

 小さかった子供たちに可愛そうなことをしてしまった。両親にも心配をかけてしまった。本当は平凡でも幸福で安定した家庭を築きたかった。仕事にかまけて家庭を放り出したと思われたらしい。無念だった。

 しかし、私の才能も、時間も、体力も限界があって、どうしようもなかった。無力感を嘆くヒマもなかった。でも、心のどこかで

「これで自由になれる」

 と思っていた。前にも敵、後ろにも敵では身体も心ももたない。

 Bくんは、今はある国立大学の大学病院で医者をしている。彼は、別れた彼女に未練があったが捨てた。賢いヤツだったから、女と医者の勉強の両立は無理だと悟ったらしかった。

 彼は、

「犠牲が多いほど真剣にやれるんや!」

 と言っていた。私もそう思う。やりたいクラブをやり、やりたいデートを楽しみ、育児も仕事も何でもこなす。どれ一つも諦めない。そんなスーパーマンはいない。私はフランス語の勉強をしているが、死ぬまでに英語とフランス語で精一杯。世界にいくつの言葉があるのだろう?

 捨てたものに思いが残っているからこそ、

「時間を無駄にできない」

 という打ち込む気持ちが真剣になるように思う。Bくんは医学部の授業料を捻出するために親が田んぼを売ったことを知ってしまった。

「おれ、いったい何やっとんのや!」

 と目覚めたらしい。そういう犠牲の上に自分の生活が成り立っている。その自覚が彼の背中を押した。Bくんの彼女は悪くない。 Bくんも悪くない。誰も悪くない。それでも、うまくいかないことの方が多い。それが人生というものだろう。

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