【共働きの両親へ】いつもいなかったから、大事だった-限られた時間が私達兄妹に与えてくれたもの
「せめて子どもが小学校を卒業するまでは、家にいてあげたい」
社会人生活を11年間過ごす間に、そう言って仕事を辞めていった友人や同僚を何人も見てきた。
彼女達の気持ちは、私にも分かる。私に子どもはいないが、おなかを痛めて産んだわが子はきっと側に居るほど可愛くて、せめて小学校までの大切な時期を側で見守りたいと思うのは、ごくごく自然なことだろう。
しかも、どこにどんな残酷な人間が紛れているか分からない昨今。小さな子どもを置いて働きに出ていたら気になって仕方ないはず。「見えないところでいじめられていたらどうしよう」とか、「寂しい思いをさせていたら」とか、「お腹を空かせて泣いていたら」とか。
考え始めたらキリがないだろうな、と思う。
それでも私は、自身の経験から子どもを預けての夫婦共働きも悪くないとはっきり言える。
働く両親。
家にずっと居て、自分達の世話だけをしてくれる母親に憧れたこともあったけれど、「家にいなかった両親」はさまざまな思い出を通して私に一つの家族の在りかたを見せてくれた。
私の両親はフルタイムの共働きを37年間貫いた。
働く両親の元で私と兄妹達が見てきたのは、共に稼ぎ、共に育てる-“共闘”ともいえる親としてのひとつの生きかただった。
鍵っ子の憧れ
小学校入学の日に渡されたのは、赤いリボンの付いた家の鍵だった。失くさないように、ランドセルの一番小さなポケットが指定位置。
最初の授業の日、私は家に帰るクラスメイトと別れて、一人地域の学童クラブに向かった。
父はサラリーマン。母は公務員。兄(2歳上)、私、妹(3歳下)の5人家族。私達兄妹は、生後2ヶ月から保育園に預けられていた。
保育園時代、送っていくのは父で、迎えに来るのは母の役目だった。それでも、当時それなりに忙しい職場にいた母はお迎えの時間に間に合わないことも多く、私たちはよく同じ園の友人宅に世話になっていた。
小学校に上がると、学童に通った。学区から離れたところにあった学童は子どもの私には少し遠く、同じ学校から通っている子はいなかった。
先生は好きだったし、おやつも食べられた。置いてある漫画なら読み放題、夏休みには昼寝もできる。けれど、私の足は学童から遠のいた。
そこが自分の居場所のようにどうしても思えなかったからだ。学童にいる間、いつも私はなぜ自分がここにいるのか分からなくて、子どもながらにひどく「座り」の悪い思いを抱いていた。
私が一人でいることを心配する親に、それは言えなくて。だから、学童に行く振りをして図書館に行ったり、ひたすら自転車で走り回ったりしていた。
そのうち学校で仲の良い友達ができると、その子の家に入り浸った。彼女の母親は専業主婦だった。
家に母親がいることを一番羨ましく思っていたのは、小学校低学年のこの頃だったかもしれない。保育園のときは、周りの家庭がみな共働きだったから、それが普通なのだと思っていて。
友人の家は初めて触れる「いつも母親が側にいる家庭」だったのだ。
それまで、平日の夕方に母親とお出かけできる家庭なんて、考えたこともなかった。母が平日に家にいるのは兄妹の誰かが具合の悪い日か、何か用事があるときだけ。どちらかというと良い印象ではない。
父なんて、もっとだ。当時、父は職場を変わる前で「今にして思うと、あの時期に身体を壊さずに乗り切れたのは奇跡に近い」というほどハードな環境で働いていた。
学校帰り、友人の家に寄ると、その場ですぐにプリントを見てくれる母親。夕飯の買い物で一緒にスーパーに行って、こっそりお菓子を買ってくれる母親。夕方になったら「ご飯だよ」と迎えにくる母親。今まで想像もしなかった“お母さん”の姿を間近で見て、当時10歳にもならなかった子どもの私が憧れたのも無理はない。
両親の決断-3兄妹と猫-
専業主婦の母親に憧れたのは本音だったけど、かと言って両親の選んだ生活スタイルに不満を感じていたわけじゃなかった。
寂しくなかったと言えば嘘になる。けれど、我が家にはその状況を分かち合える相手が二人もいて、幸運なことに兄妹仲もかなり良かった。
兄とは喧嘩もたくさんしたが、3人だけの食事の準備や買い物に行くときは年長らしい気遣いでいつも引っ張ってくれていた。
妹は家族の中で唯一私が「守らなきゃいけない存在」だった。そういう存在がいるだけで、不思議と人は強くなる。要するに、真ん中っ子の私にとっては、この兄妹構成はとてもバランスの取れた状態だったのだ。
母の用意してくれた、ルーを溶けば完成する状態になっているカレー。レンジの「ピザ」ボタンを押せば焼きあがる手作りのピザ。夏場に麺と、汁と、具を別々に盛って冷蔵庫で冷やされていた素麺。それを3人で準備して食べた思い出は、どちらかというと暖かい記憶として残っている。
さらに10歳の時に家族が増えた。最初に誰が言い出したのかは記憶にないが、子ども達がそろって「猫を飼いたい」と言い出したのだ。
両親は最初とても渋い顔をした。無理もない。「絶対自分たちだけで面倒を見る」なんて言っても、エサの猫缶やトイレの砂を買うのは結局親。何かあれば病院に連れて行くのだって、当然親の役目になる。
当時家族5人で住んでいたのは2LDKの狭い家。そこに、ただでさえ騒がしい3人兄妹。猫まで増えるとなってはたまったものではないだろう。爪とぎや何やでその家だって傷む。
それでも、最終的に両親は腹をくくって「飼ってもいいよ」と言ってくれた。
「猫を飼うことを通して、きっと学校ではできない、いろいろな経験をさせられると思った」
後から聞くと、それが大きな理由だったという。
猫は、近くのデパートの掲示板に「猫譲ります」の貼紙を出していた老夫婦からもらうことになり、母と私と妹の三人で引き取りに行った。あの日、人生で5本の指に入るくらいのワクワクした気持ちを抱えながら、駅で電車を待っていた時の光景は今でも脳裏に焼きついている。
やってきたのは、まだ生後4ヶ月ほどの小さなメス猫。私自身もどうしても欲しかったペットだ。「かぐや」と名づけられたこの猫は、家に来てほんの数ヶ月で子どもを産んだ。生まれた子猫の内、引き取り手のなかった2匹を合わせて飼うことになり、我が家の家族は5人+3匹にまで増えた。
かぐやを始めとする猫たちとの暮らしから得た経験は、両親の望んだとおり、山ほどある。私がはっきりそれを認識できる状態で「生命の誕生」を見たのは、かぐやの出産が最初だった。かぐやは私のベッドの上で4匹の子猫を産んだ。あの血だらけになったベッドは忘れられない。新しい生命生み出すことは命がけなのだと、私は中学生の時に実感した。
かぐやは20歳まで生きて、猫らしくある日突然家から居なくなった。毎日一緒にいた「家族」がそんな風にして去っていったことも、他に例えようのない衝撃的な経験だった。
猫のことに限らず、両親から本当にしたいことを拒否されたことはなかった。進路選びも、海外に行くことも、新しいチャレンジも、最初は難色を示すが最後は両親なりに考えた上で受け入れてくれた。「何でも無条件に」ではない。やりたいことを許可する代わりに条件が付くこともあった。だからこそ、逆にきちんと向き合ってくれていることが伝わってきた。
裕福な家ではなかったが、必要なときに援助を惜しまなかった。兄妹3人を全員大学や専門学校まで当然のように進学させてくれた。部活も習い事も望んだとおりにしてきた。両親がそれを上回るほどの贅沢を彼ら自身のためにしている姿は、見たことがない。
豪華な旅の思い出よりも、継続してきたイベント
子どもの頃は自分の家のスタイルが“普通”で当然の状況と思っていることが多い。年を重ねて、いろいろな家庭環境の人と話をすることで、気づくこともたくさんある。
その内の一つがイベントの過ごし方と、旅行に出かけた記憶の多さだ。
我が家は正月や誕生日や節分やクリスマスなど、年中行事のイベントをかなり真剣にやる家だった。
誕生日やクリスマスのケーキは、私が二十歳を過ぎるまでずっと手作りだった。最初は母一人。次第に私と妹が手伝うようになり、やがて私の役目、そして妹の役目へと引き継がれた。我が家で作っていたのは、決まってチョコレートケーキ。それも、母が作り始めたとき、ただ「安かった」という理由で中にキウイが挟まっているというちょっと珍しいものだった。
そのケーキしか食べたことがない私たちは、ずっとそれがスタンダードなのだと思っていた。キウイしか入っていないチョコレートケーキが珍しいと知ったのは、大学生になってから。あのケーキは、完全オリジナルの“母の味”として今も覚えている。
クリスマスには長いことサンタクロースが家を訪れていた。おそらく妹の小学校卒業までは続いたと思う。その歳になると、当然子どもも親もお遊びと分かっていたのだけど、ただ、楽しくて続けていた。普段そろって顔を合わせることが少ない環境だった私たちは「全員でイベントの準備をする」ことを面倒に思いつつも、楽しんでいたのだ。
GW、夏休み、冬休み。長期休暇には決まってどこかに泊りがけで出かけていた。と、言っても金持ちの家で毎年リゾートに行っていたのではない。地元の互助会が募集する格安のバスプランや地方に住む知り合いの家、お決まりの祖父母宅など、安くて長く居られるところが定番。子ども3人は広い公園か、水のあるところで放牧され、体力が尽きるまで遊び回るのがいつものコースだった。
学生時代よく山に登っていた両親が好んだのは、子ども連れでも往復10km以上の散歩に連れていったり、急斜面の山を登らせたりする体育会系の遊び。
もう足は動かないのに、歩かないと帰れない。そんな悲愴な気持ちで、能面のような無表情になりながら、ただ前の人の背中だけを見つめて歩き続けていた記憶も一回や二回じゃない。
けれど、それでも良かったのだ。子どもだった自分たちがリゾートホテルやハワイや高級なレストランに行きたかったわけじゃない。思い出として強く残っているのは家族5人で、邪魔されずに遊びまわった楽しい時間。あの時、父や母と何をしたかであって、その夜止まった宿のラグジュアリーの豪華さではなかった。
母は「休みの間中、あの狭い家に子ども3人押し込んでたら、何が起こるか分かったもんじゃない。私達だってストレス溜まるし。出ちゃった方が楽なのよ」と言っていた。
もちろんそれは本音だろう。けれど、普段一緒にいられない子ども達へのサービスの気持ちも当然強かったと思う。
両親で長期の休みを合わせるために、連日残業(父に限っては徹夜)で仕事をこなし、帰ってから旅行の準備。出かければちょっとしたことで喧嘩や騒ぎを起こす子どもの世話で、ひと時も休まることのない長期休暇。自分が仕事をしている今、それをこなすことがどれほどハードかは想像に難くない。
それでも両親は少なくとも妹が中学を卒業するまで何年もそれを続けてくれたし、出かけた先では私達に付き合ってくれた。一緒にスキーを滑って、湖やアスレチックで遊んで、日差しの中を歩き回った。たった一度の豪華な旅よりも、継続して与えてもらった経験が、今の私にフットワーク軽くどこにでも行く特性を植えつけてくれたのだと思っている。
ご飯を作ってくれた人
「男は胃袋を掴め」とは、大人になってから周りのお姉さん達にアドバイスされた言葉。でも、「食事を与えてくれる」相手に信頼を寄せる効果は老若男女誰にでも有効だ。特に育ち盛りの子どもに対しては絶対的な意味がある。
小学生の頃の一時期、我が家で朝ごはんは父が作るものだった。母はその間洗濯や掃除など、他の家事をこなしていた。父が作ってくれたのは決まって目玉焼きで、他のものが出てくることはほとんどない。それでも、父の作る朝ごはんは、他のどんな店で食べるものより美味しかった。
前出のように、父は当時かなり過酷な職場で働いていた。本当は朝ギリギリの時間まで寝ていたかったはずだ。それでも、睡眠より子どもに向かわせたのは、母の存在なのだと思う。
後から聞くと、父は「何もしないで寝てるなんて、お母さんが絶対に許さなかったんだよ。朝になると『今日は○○お願いしますね』って先に言われちゃうんだから」と冗談めかして言っていたが、その様子から怒りや不満は感じられなかった。
母はきっと子どもと過ごす時間が有限であることを常に感じていたのだろう。そしてそれは、自身も時間の足りない中で私たちと接していたからこそ、分かり合えた感覚なのだと思う。父も父で、母が家事に手が回らない瞬間-例えば溜まっていく洗い終わった洗濯の山や片付けきらない部屋-を見ても一切文句を言わなかったそうだ。夫婦で共闘して生活を回す。私と兄妹たちはそんな両親の姿を目の当たりにしてきた。
家のことも子どものことも二人でやる。それが共働きで3人を育てていた我が家の公認ルールだったようだ。母のパワーも素晴らしかったと思うし、何だかんだあってもそれを続けた父も見事なまでの「家庭人」だった。
子どもだった自分からしてみれば、父も「ご飯を作ってくれる人」であったことは大きかった。育ててもらうことの基本の一つにはやはり食事があって、しかも大きなウェイトを占めている。
平日の朝会ったら、次は翌日の朝まで会わなかったような父。あの時期、関わっていた時間はとても短い。けれど、食事を作る後ろ姿を見ていたことで、その存在感が薄まることはなかった。
何より嬉しかったのは、日常の中の“小さな非日常”
母とのエピソードでまっ先に思い出したのは、旅行でもなく、プレゼントでもない。夏休みの本当に普通のある一日のことだった。
小学校高学年になった私は学童に行く必要もなく、家でグダグダ。母はいつものように朝から出勤していた。その日、母は珍しく定時直後の17時過ぎに帰ってきた。そして玄関を開けると「今からプールに行こうか」と言った。
当時、自転車で10分ほどの大きな公園の敷地内に大人400円/子ども200円で入れる区営プールがあった。夏休みの間は、母が置いていったお金でしょっちゅう兄妹や友達と遊びに行っていた。
夕方、入れ替え制の最後の時間に入る区営プールは、昼間の日差しに温められて、ひどく生ぬるい。たくさんの人が遊んだ後だから、水も濁っている。
だけど、あの日の生ぬるいプールは、小学校の間何度も通った中で一番の思い出になった。揺れる水中の光景も、休憩時に見ていた夕暮れ時の空も、蒸し暑くてカルキ臭かったロッカールームですら、月並みな表現をするとキラキラ輝く記憶として私の中にインプットされている。
何でもない平日の夕方に、母と行ったプール。突然受け取った日常の中のほんの小さな非日常は、その後何年経っても私の気持ちを暖めてくれた。
1/3の時間の中で、3倍受け取ってきた思い
家に居なかった両親から、私達兄妹が受け取ってきたものは、時間ではなく子どもに向き合ってくれる姿勢だったのだと思う。
両親から「子どものために働いている」を言われたことは一度もなかった。逆に「一緒にいられなくてごめんね」なんて謝られたこともない。
両親は子どもとの生活に必要なことを、力を合わせて一つずつ行っていた。それが「家庭を作って営んでいく」上で当然のこと、という姿勢だった。
幼少期に小さな子どもの側にいてやりたいと願う親は多いと思う。けれど、それができない状況の人も今の時代は少なからずいるはずだ。私は自分の経験を通して、「時間じゃない」ってことを両親から学んできた。むしろ、限りある時間だったからこそ、私たち兄妹は真剣に彼らが与えてくれるものを受け取ろうとしたのだと思う。
子どもは親をよく見ている。親が何に対して必死になって、何を大切にしようとしているのかを敏感に察しているものだ。もし、我が家の両親が裕福な成功者で、母が毎日うるさいまでに世話をしてくれていたら、親からもらったものの価値は私の中で半減していたかもしれない。
あるいは、親が自分のしていることに負い目を感じていたり、肝心なところで自分達から目を逸らして、向き合おうとしてくれなかったら、早々に家から離れていったかもしれない。
今となってはリタイアした両親よりも、フルタイムで働く兄や私の方が忙しい。それでも、子どもを産んだ妹を含めて、月に一度は親の家に家族が集まる。
それが、両親のしてきたことの結果なのだと思う。
37年間働き通した両親。それを間近で見てきた私には、家庭を持っても働き続けることが普通という感覚がある。
ただ、そうするからこそ、子どもにはまっすぐに向き合いたい。限られた時間の中で、私が差し出すものを受け取ってくれる間に、出来る限りの思い出を共有して渡してあげたい。
次につなげていくことを両親への恩返しに代えて。
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