高木教育センターのありふれた日々(7)
式の指導が行われているから、それに乗っかったりする。
ところが、私がどんなに頑張っても銀行に行けば
「オタクら小さな個人塾はみんな負け組みなんだよ!」
と罵られ、もと奥さんからは
「あなたは仕事と私とどっちが大切なのよ?!」
と罵倒されバツイチになり、こうして合格実績を発表しても
「どうせ、ウソだろう!」
と信用してもらえない。スッカラカンの生徒から
「オレ様はあのでっかいビルの塾に通うつもりだ。バイバイ」
と言われる。
卑劣な同業者からは間断なく嫌がらせのイタズラ電話やいたずらメール。そういう中で、私を信用してくれるのは優秀な塾生の子たちだけ。彼らがいなかったら私はダメになっていた。A子ちゃんだけではない。
そういう子たちの熱い思いがなかったら、私は京大を7回も受けなかった。英検1級、通訳ガイド、国連英検A級など受けなかった。スタンドプレイと言いたい奴は言え。私には関係ない。私は負けない。何があっても負けない。こどもたちに恥じない父親になりたいのだ。
どんなに踏みつけられても数字はウソをつかない。賢い子はブレずに数字だけを見ている。だから、私は事実と数字だけにこだわるのだ。
今までも、これからも。
第六十二章
「文系と理系」
2000年以上前に生きていたギリシャのピタゴラスの考えた定理を私たちは理解できる。論理的に考えることができる人なら分かる。サイエンスとはそういうものだ。しかし、ピタゴラスがどうして定理を見つけるに至ったかは誰にも分からない。彼の才能、生き方、当時の環境などは再現不可能だ。
受験でも、どの問題集を使うか、誰の指導を受けるか、何時間くらい勉強をするのか。そういう計測可能で客観的なサイエンスの面は模倣が可能だ。しかし、同じ方法を使っても結果は変わってくる。なぜか。
それは、人により才能も性格も置かれた環境も全く違うからだ。特に、成績アップのためには強い動機付けが大切なのだが、これはサイエンスではない。あえて言うなら、文学、哲学、心理学といった文系的発想が必要なのだ。
私の指導させてもらっている優秀な生徒たちは、陸上で優秀な成績をおさめた子、バイオリンの大会で入賞した子など、文系でも優秀な才能を見せる子が多い。美的な感覚が優れている子は、数学の壮大な理論体系に美を見いだしやすいのだ。
勉強のできない子の決まり文句
「こんなんやって、何の役に立つの!?」
という勘違いには陥らない。美しいから引き付けられるのだ。その美しさを感じられない子には分からない。私は「教育学部」出身で、文系人間と呼ばれているが塾生の子たちは「数学の先生」と思っている子も多い。数学Ⅲを指導しているからだ。
成績アップのためには強い動機付けが必要なので、勉強法に関してサイエンス以外の面を語ってみることもある。すると、成績上位の子たちは興味深く聞いている。
「どうして英検1級をめざし始めたのか」
「どうして京大を7回も受けたのか」
ところが、勉強ができない子たちは「威張っている」としか受け取らない。人間が素直でもなければ、動機付けのような中身が大切ということが分からない。どの塾がとか、どの問題集がとか、外面的なことしか興味がない。理解できない。だから、勉強がいつまで経ってもできない。
勉強を見栄や出世の道具にしか考えていない子は伸びない。英語や数学にロマンや美を感じられない子に成績アップの見込みはないが、サイエンスを教えることは出来ても生き方を教えるのは極めて難しい。
理系の理論は普遍的だから、誰にも解説ができる。しかし、文系の理論は他人には解説ができない。文学の内容や心理学など普遍性がまるでない。自分の年齢が上がれば理解の深さも変わる。
文系人間の最たるものが左翼。論理性のかけらもない。たとえば、中国の南シナ海の人工島が問題になっている。大規模な自然破壊だ。ところが、左翼は同じ社会主義の中国がどんな自然破壊を行っても沈黙する。
ところが、ほんの少しでも沖縄で海を埋め立てて基地を作ろうとすると大規模なデモを連日行う。ひどいものだ。偽善の最たるものであって、普遍性のかけらもない。だから、多数の理解は得られない。論理性の欠けた人たちに理解力を期待しても仕方ないので、実力行使になってしまう。困ったものだ。
第六十三章
「幸福な時間」
識字率が低い国に行くと、文字が読めるだけで重宝される。周囲からは知識人扱いを受ける。日本も昔はそういう時代もあったのだ。
ここ「いなべ市」の中学生や高校生の学力は異常に低い。北勢中学校の四日市合格者数は100名以上の生徒数にもかかわらず去年も今年もわずかに1名。隣町の「桑名市」の陵成中学校や光陵中学校では毎年15名以上合格している。
こんな環境で育つ中学生たちは、識字率が低い国で育つ文字の読める人のような扱いを受ける。ほんの少し勉強するだけで、勉強熱心。ほんの少し計算が出来るだけで頭が良いともてはやされる。当然、志は低く視野は狭くなるのだ。
私はそういう生徒の指導が苦手だ。慢心しているので、少しひねった問題を扱おうとすると
「そんなの習ってない!」
と取り組もうとしない。もちろん、桑高や川越に合格できるわけがない。指導していても、ちっとも楽しくない。私の「幸福の時間」は覇気のある、努力家の指導。最近、男子より女子の方に覇気のある子が多い。
それで、理系女子の指導が一番楽しいことになる。私は小学生の頃は絵描きになりたかった。漫画家を夢みていた時期も長かった。美しいものを見るのが好き。外見ではない。美術とか数学の壮大な理論。
逆に、素行不良、非行少年、非論理的な話などには生理的な嫌悪感。小さい頃からスルーすることにしている。だから、「ガリレオ」の湯川先生の犬のウンチの話や、彼が非論理的なこどもが嫌いでジンマシンが出るのには共感した。
誰だって、ヤクザは避けるし犬のうんちは臭いから避けるだろう。
楕円c:x^2/a^2+y^2/b^2=1(a>b>0)上に2点P(0,-b),Q(acosθ,bsinθ)をとる。ただし、0<θ<π/2である。QにおけるCの接線をlとし、Pを通りlに平行な直線とCとの交点のうちPと異なるものをRとおく。このとき、
θが0<θ<π/2の範囲を動くとき、三角形PQRの面積の最大値とそのときのQの座標を求めよ。
いろいろやり方はあるだろうけど、普通に考えると接戦の方程式を出して、それと平行な直線の方程式を出して、楕円の方程式と連立させて交点の座標を求めて、底辺の長さと高さを求めて、三角形の面積を変数で表示し、微分して増減表を書いてみる。そんな感じだろうか。
こういった理路整然とした論理は美しくないだろうか。美しく感じられるまでには、練習が必要だ。それは、料理の腕を磨かないと美味しいものが食べられないのと同じこと。医学の勉強をしないと、人の命を救えない。どんな分野でも、腕を磨かずに感動は得られない。
幸福な時間は得られない。
私が今までに受けた最低の授業は追突事故を起こして、三重県の自動車教習所の講習会を受けたときのこと。集まっていたのは、明らかに荒んだ生活をしているという雰囲気を振りまいている人たちばかり。教官は入ってくるなり
「途中で教室から出た人は、講習会を受けた印鑑を押しません」
という脅しから始まった。
次に酷かったのは名古屋の専門学校で非常勤講師をしている時のクラス。明らかにFランク大学でさえ入学を許可しないタイプのイカれた子たち。校長は、私たち非常勤講師に
「先生方は、あちこちの学校を掛け持ちされていますが、本校のことは口外無用で」
と念を押していた。
交通事故の常習犯や、Fランク大学も合格できないような子は社会ではカス、ゴミ扱いを受ける良い例だ。守るべき法令を守らない。守るべき校則も守れない。その結果、周囲に与える迷惑は時として人を殺してしまう。そういう人間には人間扱いする必要がないという暗黙の了解がある。
警察や軍隊はそのためにある。こういう人といると「不幸な時間」になってしまう。関わらないのが一番だ。
「幸福な時間」を増やし「不幸な時間」を減らす。それが、賢明な判断だろう。
第六十四章
「ベッキーの赤いリボンのプレゼント」
もう30年以上も前の話だ。1982年に、私はアメリカのユタ州ローガンで中学教師をしていた。11月に入ると町中がクリスマス一色になり、ネオンで飾られた。ある日、子煩悩の理科教師アランがアジア人むけの支部教会に私を一緒に連れて行ってやろうということになった。
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