高木教育センターのありふれた日々(8)

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 夏休みには、中学生と一緒に英文タイプの授業をとってタイプができるようになった。手紙や日記をタイプで打ったりした。夏休みは3ヶ月ほどあったので、カリフォルニアに旅行に出かけた。途中で一緒になった日本人男性二人と三人旅だった。

 全く知らないお店に入って英語が通じる感じがした。とんでもない遠い所に来ている実感があった。1年くらい経つと

「もはや英語でコミュニケーションは困らない」

 という自信があった。自信満々で帰国した。でも、英検の教本を見たら知らない単語が続出。

「なんだ、コレは!」

 と憤りを感じた。

「こんな単語は必要ない」

 と思った。しかし、公的な資格なしでは何のためにアメリカに行ったのか分からない。だから、結局「英検1級」の過去問を周ほどやるはめになった。そして、帰国後3年目で合格した。

第七十三章

「こうやって、京大数学が7割解けるようになりました」

  私は英語講師として塾をはじめた。だから、数学はやる必要がなかった。たまたま、A子ちゃんという素晴らしい子にめぐり会って

「高校入学後も指導をお願いします」

 と言われて、なし崩しに

「数学のコレ教えて欲しい」

 と数学の指導を始めるハメになった。最初は教科書準拠の「オリジナル」を1問、1問解いていった。たいてい、喫茶店でノートを開いて書きなぐっていた。毎日2問か3問ずつ進めた。解けない問題はチャートを調べた。間違えた問題は、しばらくしてやり直した。

  それが2周ほど終わって

「だいたい身についた」

 と感じた頃に

「次は実際の大学の問題だな」

 と思い、和田秀樹さんの「新・受験技法」や、エール出版の合格体験記などを見て、

「Z会のチェック&リピートがよさそうだ」

 と決めて、オリジナルと同じペースで始めた。Z会の「京大即応」コースも始めた。駿台、河合の「京大模試」も受け始めた。さすがに、スラスラとは行かなかったが悪戦苦闘しながら2周した。

 それで、この頃から指導用のプリントを作り始めた。生徒の方から

「確率と漸化式の例の問題がやりたい」

 とか

「積分の解と係数の関係を使った1/6公式を使う問題」

 とか、リクエストが出始めていた。私には、それが何のことかすぐに分かったのであちこちから類題を探してプリントを蓄積していった。

「もういいだろう」

 と思ったので仕上げの問題集を考えて「1対1」にした。これを、同じペースで解きながら、センター試験と京大二次試験を受けて成績開示して英語と数学の正解率を確認していった。結局、センター試験は10回、京大二次は7回受けて

「英語8割、数学7割」

 のレベルになったので、このプロジェクトは終了とした。しかし、それは文系の数学ⅡBまでの話だったので、同じ作戦で数学Ⅲに取り組んだ。そして、通塾生が京大薬学部、京大医学部、三重大医学部などに合格したのを確認して

「もう京大数学は大丈夫」

 と自信を深めた。プロジェクト開始から10年目だった。

 それで、4年前から「通信生」を始めた。ちょうど、ネットが普及してきたからだ。写メしたものを送信してもらうことにした。英語も数学も両方とも、文字から学ぶのは効率が良くない。

  生徒と話しながら記憶に残ったことは、長く忘れない。私にとって、数学は生きることと同じだ。だから、身についた。なにか勘違いして

「こうしたら数学が簡単に身につく」

 というマジックがあると考える子が多いが、間違い。1問1問

「どうして、こういう解き方をするのか」

 を確認していく。それを2000題を目安に地味にノルマを毎日こなしていく。そういう地味な努力ができない子は永久に数学は身につかない。

第七十四章

「26歳、無職、貯金なし、彼女なし、資格なし、何にもなしのボクだった」

  人生、相当頑張っても危機は避けられないようだ。仕事をやめてアメリカに行ったのはいいが、帰国する時に名古屋の7つの予備校、塾に履歴書を送っても返事はゼロだった。つまり、失業した。アメリカでお金を使い果たしていたし、これといった資格を持っているでもなかったから、いきなり生活に困った。

  それで、近所の小さなアパートの一室を借りて「学習塾」を始めた。他にやれることがなかったのだ。クーラーを買うお金もないので、中古のクーラーを買ったら効きが悪いだけでなく、すぐ壊れた。生徒が勝手に自転車をとめるから近所から苦情が来るし、親からは

「娘が帰り道でスカートめくられた!そんなこと教えとんのか!」

 と怒鳴られた。銀行に行ったら

「大手が勝ち組、個人塾は負け組み」

 と相手にされず、つきあっていた彼女の親からは

「なんで、国立大学を出てまで塾なんかやってんの?先生なら嫁にやる」

 と言われた。田舎の小さな塾講師など、人間扱いされないのだ。結婚もできないのだ。要するに、社会のゴミのような存在らしい。

「これではならぬ!」

  と思い、本当に朝から晩まで英語の勉強をした。大学出てまで猛勉強になるとは思っていなかった。そして、3年後に英検1級や通訳ガイドの国家試験に合格し、名古屋の大規模塾の非常勤講師をし、貯金をためて確定申告を青色に変えて、別の信用金庫に相談し、親や親戚に連帯保証人になってくれと頼み込み、やっと塾を建てた。

  塾生数が100名を越えて、カッコがついたところで結婚できた。駆け落ち同然だったけど。また、地元の名士の子や北勢中学校や東員第二中学校のトップクラスの子たちが来てくれて、塾の知名度が上がり評価も上がっていった。

  その頃に雑誌に紹介されたり、新聞に紹介されたりした。また、ネットが普及しだしたので、Youtube に投稿し、ブログを書き始めた。すると、3万回再生されたり、受験生ジャンルでランキング1位になったりした。たぶん、京大を7回受けて成績開示したことがインパクトを与えたのだと思う。

  しかし、頑張ったらもと奥さんから

「仕事と私とどっちが大切なの!」

 とダメ出しを受けてバツイチ。50歳にして、貯金なし、奥さんなしになってしまった。世の中うまくいかない。こどもたちが成人して独立したので、チョンガーでも構わない。もう女性は懲り懲りだ。

  社会の扱いは、いまだに改善されない。卒業生が京大医学部、阪大医学部、名大医学部に合格し、通信生は北海道から九州まで広がっている。それでも

「たかが田舎の塾講師」

 と非常に軽く扱われる。日本人は肩書きと知名度とお金がすべてらしい。どんな資格をとっても、指導した生徒が難関校に合格しても、生徒たちから信頼されても

「田舎の塾講師」

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