5歳で両親の離婚を経験して心に傷を負った僕が音信不通だった母と18年ぶりに再会して気付いた親子に必要なたった1つのこと

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どっちについていきたい?



突然の質問に5歳の僕は答えられませんでした。


僕の記憶の中ではどこかの家の一室にママとパパとお姉ちゃんと僕がいて、詳しい経緯はわからないけど、悲しいことが起きているということは感じていました。


字幕の付いてない洋画を見てもどんなシーンかわかりますよね?あんな感覚です。


僕は質問への答えが今後の人生を決める答えになるのだとなんとなく直感していました。


ですが、ママかパパのどちらかを選ぶなんてできません。


5歳の僕
ふたりともいっしょにいてほしい。


それが5歳の僕の答えです。


でもそれはできません。


なんで?理由もわかりません。


どうすればいいのかわかりません。

なみだがでてきます。

2つ上のお姉ちゃんも泣いています。


…そして僕は決断します。


5歳の僕
パパといっしょにいる。


理由はわかりません。姉曰く、僕がそう言ったから私もそうしたとのこと。

僕もよく覚えてません。思い出せるのは悲しい感覚だけです。


5歳の時に両親が離婚して父親に引き取られた僕と姉は、父と祖母と4人で暮らしていました。


父と祖母が営む喫茶店と自宅が一体になっていましたが、喫茶店が開店しているときは入りにくかったので、2階の部屋でゲームばかりしていました。


母がいない生活が普通になって、家事は祖母がしてくれていたので祖母が母親のような感覚でした。それでいいと思っていました。


小学3年生の時に喫茶店を閉めることになり、喫茶店のある家からそれほど遠くない所に引っ越しました。

通う小学校が変わりましたがそれも中学に上がると、田舎で学区が広いため前の小学校の友達と一緒になれました。


授業参観や友達の家に遊びに行った時に友達のお母さんを見て少し羨ましい気持ちになるときもありましたが、母が恋しくなることはありませんでした。


というより、どれだけ願っても母が帰ってくることは無いとわかっていたので、母を求めることはやめていました。



そして、高校生になった僕。

小学4年生の時から野球を始めていた僕は高校でも野球部に入りました。


部活の中でも野球部というのは特に学生の親の手助けや応援が求められる傾向にあります。

それは僕の入った高校でも同じで、親御さんの会が作られて試合のときは役割分担をして裏方の仕事をしてくれていたそうです。

そのおかげで練習や試合に集中できたので、当時お世話になった親御さん達にはとても感謝しています。

僕の父は僕たち家族を養うために働いてくれていたので、試合や練習を見に来たりすることはありませんでしたが、練習終わりに雨が降っている時などに、車で迎えに来てくれていました。


高校生にもなると僕自身、離婚を経験して12年程経って気持ちも割り切れていたので、

17歳の僕
女の子と話す経験少ないし苦手やわぁ。
お母さんいいひんからなぁ。
友達
いや、笑いにくいわ!


なんて会話も日常茶飯事で、気にしてもいませんでした。


親御さんも僕が離婚を経験していることは知っていたので「田中くんのお母さんは来ないの?」とか的外れな質問をされることはありませんでした。

手伝いに来てくれる親御さんはやはりお母さんが多くて、友達のお母さんの集まりというイメージがありました。


そんな中でも特に面倒見の良かったのが後輩Tのお母さん(T母)で、僕と後輩Tが同じポジションだったこともあり、お兄ちゃんのような感覚で接してくれました。

遠慮を知らない高校生の僕はT母に敬語も使わず馴れ馴れしく喋っていましたが、T母は気にする様子もなく優しく対応してくれていました。

社会人になった今もT母には、たまに挨拶しに行ってます。

そんなT母の存在もあり、母親がいないことを意識することが少し増えましたが、真面目がウリの田中翼は問題も起こさず卒業しました。



高校卒業後、柔道整復師を目指して専門学校に入学した僕は、3年間勉強をして国家試験に合格して柔道整復師として整骨院で働くことになりました。



そして整骨院で働き出して3年目の夏。

23歳になって、結婚する同級生や後輩が増えてきていました。


友達と話すことが好きだった僕は、同窓会などでも近況を聞いたり学生時代何を考えていたのかを聞いたりしていました。

ですが男ならまだしも女性となると、結婚後は一緒に話せる機会が減ってしまうと考えた僕は同級生の女の子ともっと話そうと思い、連絡を取るようになりました。

そして一番に白羽の矢が立ったのが同級生のM美でした。


実はM美とは不思議な縁があり、3歳の時から親子同士で仲良くしていてよく家にも遊びに来ていました。小学校に上がり離れ離れになったのですが、2年生の時にM美が引っ越してきて小学校でも一緒になりました。しかし一緒になったのも束の間、3年生の時に僕が引っ越してしまい、遊ぶこともできなくなりました。

中学校でまた一緒になるのですが、しっかり話すことはなく廊下ですれ違う時に意識する程度でした。

高校でも一緒になったのですが、しっかり話すことはなく卒業して、それからはFacebookでやり取りするぐらいでした。

でも、だからこそ今のうちにしっかり話しておきたいと思ったのでM美にFacebookで連絡をとって一緒にご飯を食べに行くことになりました。


仕事が終わって、駅で待ち合わせて久しぶりに会ったM美は社会人になって昔の面影を残しながらも綺麗になっていてドキッとしましたが、話してみると明るくて話しやすい昔のままのM美でした。

店に入って料理を食べながら、昔のことや最近のことを話しているとM美のお母さんの話になり、実は数年前M美のお母さんが倒れて入院することがあったということを知りました。

全然知らされていなかったので驚きましたが、今は退院して元気になっているそうなのでホッとしました。

その話の中でM美は言いにくそうでしたが、M美のお母さんが入院している時に僕の母がお見舞いに来てくれたとも話してくれました。


離婚する前からM美のお母さんと僕の母が仲良しだったのは知っていましたが今どうしているのかは全く知らなかったので驚きました。

驚いてばかりですが、連絡を取らないと近況もわからないものです。


そこから僕の母の話になり、僕は姉の話を思い出しました。

それは姉が高校生の時突然、母と名乗る女性が自分に会いに来たという話でした。どうやら母はM美のお母さんのお見舞いに行ったとき姉がいる学校を知って、会いに行ったようです。

高校生の姉は動揺してどうすることもできなかったと言っていましたが、その後連絡を取り合って実は母と何度か会っていたそうです。

M美もそれは知っていたようで、その時の経緯も話してくれました。


知らないことだらけだったM美との食事はあっという間に時間が過ぎ、M美を家まで送って帰りました。

遠いと思っていた母の存在が自分と近いのだと感じた日でした。

そして運命の日は近づいてきます。



ある日姉からLINEが入りました。

10月25日演奏会あるけど来る?
予定ないし行くわー。

姉が所属するオーケストラの演奏会に出るとのことなので、

特にその日予定もなかった僕は見に行くことにしました。


しかし一人で見に行くのも少し寂しい気もしたので姉のことも知っているM美を誘ってみましたが、当日は仕事で行けないとのこと。

仕事終わりに近くでご飯ぐらいなら大丈夫だと思うとのことだったので、演奏会終わりにM美と待ち合わせることにして当日を待ちました。




しばらくしてまた姉から連絡がありました。

演奏会お母さんも来るで



え?




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