ジャッキー・チェン、英検1級、京大、阪大医、名大医

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 と言う。それで、

「どういう意味?」

 と尋ねると

「こりゃ、シェークスピアの時代の英語だよ」

 と笑っていた。

  しかし、アメリカから名古屋にある7つの予備校、塾、専門学校に履歴書を送付しても全て無視されたので、私は日本の英語業界で認知されている資格を取らざるをえなかった。

  事実、英検1級を取ったらどの予備校、塾、専門学校も返事が来るようになった。結局、コンピューター総合学園HAL、名古屋ビジネス専門学校、河合塾学園、名古屋外国語専門学校などで14年間非常勤講師をすることになった。

  その間に出会った英語講師の方たちの中に、英検1級を持っている人はいなかったし、旧帝卒の講師の方もいなかった。資格を持たないと雇ってもらえないという私の見方は誤っていた。

  私はその頃には受験英語を捨てていた。どの資格試験の英作文も面接試験も、すべてアメリカで使っていた英語で通した。つまり、中学生レベルの英語を使って難解な内容を表現する英語だった。

  ところが、今はまた受験英語を指導している。高校の入試問題も、大学の入試問題も30年前から何も変わっていないのだ。受験参考書の構文も、相変わらず take it for granted that や not until の世界なのだ。

  日本にやってくるALTが増えて、

「日本の教科書はクソだ」

 とか

「英語が話せない教師が英語を教えている!」

 と言っても誰も耳を貸さない。そして、偏差値追放、小学校から英語を、と意味不明の政策を打ち出す。私のいる予備校、塾業界も暴走族講師やらマドンナ講師やらパフォーマンスばかり。

 そして、それをマスコミが煽る。賢い生徒はあきれ返って「マスゴミ」と揶揄している。

 しかし、一体いつまでこのような状況が続くのか。

  でも、本当に英語教育界にまともな人はいないのだろうか?私が四日市高校や名古屋大学の教育学部で出会った学生の中にはまともな人もいた。それで、日本一レベルが高い東大や京大を受けてみることにした。

  京大は英語の試験が和訳と英作文という珍しい大学だ。それで、まず「京大模試」とZ会の「京大即応」を受講してみた。京大模試は河合、駿台、代ゼミなどを10回。Z会は8年間やって、じっくり研究してみた。

  ランキングに載り、Z会からは「六段認定証」というのももらったが、毎回の添削は納得がいかなかった。京大模試の採点も同様だ。それで、

「いったい、だれが採点してんだ?」

 と思い調べてみた。しかし、企業秘密で分からない。ただ、自分が勤務していた予備校の講師レベルだろうとは推測できた。受験参考書どおりの訂正がなされていたからだ。

  京大を受けた時は、最初の2回は「受験英語」で書いてみた。すると、6割正解くらいだった。私の英語がそんなレベルであるはずがない。それで、次の2回は「資格試験」の参考書に書いてあったような古い口語で書いてみた。それでも、7割くらいの正解率だった。それで、最後の3回はアメリカで使っていたような中学レベルの英語で書いてみた。すると、8割正解に跳ね上がったではないか。

  やっぱり、京大の先生は一流だ(笑)。

  私の指導させてもらっている優秀な生徒も同じ感想を持っているらしい。

「あの先生は、自分で京大を受けたら確実に落ちる」

  と、京大医学部に合格した子が言っていた。それで、

「この子たちなら、私の言うことが分かる」

  と、英語の添削を始めた。

 すると、やっぱりというか次々と京大合格者が出始めた。それだけで

はない。京大医学部、阪大医学部、名大医学部、東京医科歯科大学、三重大医学部など、どこにも有効なのだ。

  大学の先生は、やっぱり賢い(笑)。

 でも、そんなことを言ったら蛇蝎のごとく嫌われた。日本は和を重んじるだけで、議論をさせないプレッシャーが半端ない。

  みんな食っていかないといけないので、英語が話せなくても、生徒が志望校に落ちても、そんなこと関係ない。自分の生活が優先。そういうことらしい。でも、それで犠牲になる生徒たちはどうなるのだ。大人の責任を放棄していることにならないか?

北勢中学校にいる時は英語が一番嫌いだった。点数もよくなかった。数学は理科、社会、国語と同じで特に意識した科目ではなかった。総合点でトップクラスにいたので、それで満足だった。

   試行錯誤を繰り返す私に父は

「大学院に行きたいならお金は出してやるぞ」

 などと言った。

 

この本の中で紹介されました。

  

 

英検1級、 通訳ガイド、 国連英検A級

数学に対する執着は残っていた。

最初に

「ボクは数学が苦手なのだろうか?」

  と疑問を持ち始めたのは、四日市高校の2年生の頃。1970年代の四日市高校は男子の割合が大きく、男子クラスがあり私は男子クラスに在籍していた。

  当時、男子は理系に進むのが大多数だった。その中にあって、テストの度に数学が壊滅的な点数になっていた。全国の模試なら、そこそこでも四日市高校の男子クラスではどうしても周囲の子と点数を比較してしまう。平均点と比べてしまう。

  点数だけでもない。三角関数、対数、微積分と進むにつれて

「もうボクの頭には入りきれない」

  と友人にぼやいていたのを思い出す。物理で13点を取り、

「こんなのありえない!」

  とショックを受けて、クシャクシャにして捨ててしまった。私は数学の公式を使う場合に、

「証明できないと、使う気になれない」

  というタイプだった。今思うと、それでは前に進めない。結局、自分が何をやっているのか分からなくなり気持ちが混乱し始めた。そして、1974年の大学受験の5日前を迎えた。

  2階の勉強部屋で数学の勉強をしていたら、突然手足が震え始めて椅子からズリ落ちてしまった。そして、

「お父さん、ボク変だ」

  と叫んだ。二回に駆け上がって来た父は、ひっくり返った亀のように手足をバタバタしている私を見て

「お前、何をしてんだ」

  と言った。そして、近くの総合病院に担ぎ込まれた。

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