失聴経験 2私は母親と同じじゃない

前編: 失聴経験 1診断結果
後編: 失聴経験 3初めての補聴器

 


私は人間ができていない。その日、母親のことを心から恨んだ。

遺伝したことに対してもそうだし、母親の後退的な生き方も全て嫌で嫌でたまらなかった。


私は父、母、妹、自分の4人家族だ。母親が聞こえなくなったのも成人してからだった。

私が子供の頃の記憶なんて楽しい想い出なんかない。

母親は私が家にいる間中、現実を受け入れられない弱い人間だった。毎日のように


「お母さんは聞こえないのに、どうしてみんな分かってくれないの?」

と近所や職場であった出来事を、これでもかこれでもかと言う程、悲観的に訴えてきた。


そして母親は何度も自殺未遂を繰り返した。

今、客観的に思えば本気で死ぬつもりがないから、何度も中途半端なこと繰り返したのだと思う。

「自分はなんて可哀想なのだろう。」

と周囲の注意を引くために繰り返したのに違いない。その度に家族中がいつも振り回され、情緒不安定にさせられた。



私がもし生と死の淵に立ち、自分で確実に死を選ぶのであれば、それを他言したりはしない。

そして絶対に成功すると思うやり方で、最後まで貫き通すに違いない。

(今はまだ自分から死にたいとは考えられない。私の中に叶えたい夢があるから。

例え完全に聴力を失ったとしても、私は生きたいと思うだろう。)


「今、死と向き合おうとしている人」や、「以前、死の淵へ立とうとした人」は、私の考えがキレイゴトに過ぎないと思うかも知れない。

けれども私は既に小学生の頃、自殺を図っている。

当時は幼かったし、鍵のかかる自室などなかった。首に紐を巻いている所を発見され、あっけなく殴られて終わってしまったのだけれど。



母親のことばかり書いてしまったが、父親はどんな人なのか?

世間的に言えば外面ばかり良い人間だ。私は物心ついてからあの家にいる間中、両親に虐待を受けていた。

ある程度の年齢に達すると母親は暴力を私に向けなくなったが、父親の暴力は私が家を出るまでずっと続いた。


「お前がいるから、この家は不幸なんだ。」

「お前なんか殺す価値もない。」

と言われ続けたことは、今でも忘れられない。


一時期は私も盾をついて

「くそじじい! くそばばあ!」

と反抗した。けれども所詮、大人の男の力にはかなわなかった。

私があの家にいる間中、父親は母親と妹には一度も手を上げなかった。

私だけがいつも殴られ、足蹴りされ、暴力と暴言を浴びせられていた。

父親はいつも私のことを「くそ」「デブ」「バカ」「ブス」「死ね」などと呼び、罵っていた。


私の家庭は家庭としての機能を果たしていなかった。両親は貧乏と暴力と被害者妄想にまみれていた。

父親は私が家を出た後、それまで私に向けていた暴力を妹に向けるようになる。

耳の聞こえない母親に対しては、わざと小さな声で早口で話したり無視をするようになる。

父親はストレスのはけ口を上手く作れない可哀想な人間だった。

「子供は親の背中を見て育つ」と言う言葉がある。

私にとって両親の存在は「こう言う生き方をしたくない」と言う意味での手本となった。








高校1年の三者面談のことを思い出した。

母親は何日も前から「聞こえないから行きたくない。」と泣いてばかりいた。

(もちろん父親が「代わりに行く」と言うはずがない。)

前日の夕食時も「明日は行きたくない。」と泣いてばかりいた。

私は仕方なく自宅近くの公衆電話から副担任の先生に電話をかけて「自分の母親は耳が聞こえないこと」と、「翌日の面談では大きな声で話してくれるように担任に言って欲しい」と頼んだ。


本来ならば母親本人が担任に言えば済むことである。

「先生、実は私は耳が悪いんですよ。補聴器をつけていても上手く聞き取れない時があるんです。

何回も同じことを聞き返すようであれば、その時は紙に書いてもらえませんか。」

なぜ母親は、そう明るく前向きな考えが何年もできなかったのだろうか?


聞こえないことを聞こえるふりをして、隠そうとするから辛いのであって、それを早く受け入れた方が楽であるし、

私は母親とは違う人間である


ティッシュBOX一箱使い切って得た結論は

『前向きに生きる。』と言う決意だった。










≪追記≫

この文章を書いていて「1度だけ自殺を図ったこと」を思い出しました。

(原稿を読み返すまで、すっかり忘れていました。)

その時、小学校何年生だったか思い出せませんが、母親に頭や顔を殴られた後

「このまま生きていても辛いだけだ。」と窓の外を眺めながら窓から逃げようかと思いました。

しかし逃げてもすぐに捕まると思い、色々としまってあった物の中から電気毛布のコードを見つけました。


それを出来る限り首にグルグルと巻いて両手で思い切り引っ張りました。

目を閉じた視界に昔のテレビの砂嵐のようなものが見え、首を絞める圧力から首から頭部が痙攣するような感覚がありました。鼻水と涙が出ていましたが「もう少し頑張れば楽になれる。」と思い、手に力を込めました。

次第にコードのわずかな間に首の皮膚が挟まり、それが痛くてもう一度巻き直し…同じ所までは上手く行くのですがまたコードに挟まる首の皮膚の痛さに断念して手の力を緩めてしまいました。


何度目を繰り返した時だったのでしょう?  

仕切りのカーテンを開けた母親が形相を変え

「何やっでんの?」と私の手から電気毛布のコードを取り上げました。

首についた締め上げた跡も確認せずに、先程よりも激しく私の頭や顔を殴りました。

その生き地獄を味わったことを今も鮮明に思い出すことができます。

自らの手で命を断とうとしたのは、後にも先にもこの時だけです。


首に巻いたコードの跡は、すぐには消えませんでした。

母親は学校にバレることを恐れ「とっくりのセーター」※(今で言う所のハイネックのセーター)を着て翌日から学校に行くように言いました。

もちろん首にコードを巻いて死のうとしたことは「絶対誰にも言うな」と言われました。


夜に帰宅した父親に母親が話していたことは

「だんだん大きくなってきたから、これからは顔は殴らない方がいい。頭なら見えないけど、頭を殴って頭の悪い子になっても面倒だからこれからは服に隠れて見えない所を叩くようにしよう。

そうすれば人に見つからない。(バレない)」と言っていました。


中学生の頃には母親の暴力=身体的虐待はほとんど収まっていました。(心理的・性的虐待は受けていました。)


父親の暴力=身体的虐待は続いており、逃げる私を背中の方から服ごとブラジャーも一緒に掴み、

その勢いで壁や柱に叩きつけられたりしました。

そして倒れ込む私の背中を足蹴りしたり、背中を勢いよく足で何度も踏みつけたり、蹴りを入れたりしました。

そうされると呼吸もままならなくなり、時に頭も踏みつけられることがありました。


家を出る18歳まで、本当に良く耐えたなぁと思うのと同時に、当時誰か助けてくれる大人の人がいたら私を保護して欲しかったと思います。


※他人の家庭・家族のことに介入するのはとても難しいことですが、

もしこの文章を読まれた皆さんの身近な所に「虐待を受けているのではないか?と思う子」や「もしかして虐待をしているのかも知れないと思う大人」がいましたら是非、相談機関にご連絡して頂ければと思います。




http://www.orangeribbon.jp/



直接本人に掛け合っても、無自覚の場合があります。

仮に相談機関に連絡したとしても確証を取るのが難しかったりするかも知れません。

しかし今現在も多くの子供たちが児童虐待の犠牲になっているニュースが絶えません。

あなたの勇気ある行動が、一人の幼い命を救うきっかけになるかも知れないのです。






続きのストーリーはこちら!

失聴経験 3初めての補聴器

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