あの頃、ビアハウス:エピローグ

前話: あの頃、ビアハウス:Auf Wiederseh´n(2)

2016年、ビアハウスから37年後の現在

夫と初めて会ったのも、この思い出のアサヒ・ビアハウス梅田です。1977年6月30日でした。その日は彼の30才の誕生日でしたからよく覚えています。出会ってから2ヵ月後に、彼は広島大学病院研修生として広島へ移動したので、わたしたちは今で言う「遠距離恋愛」でした。会うのは月に一度か二度、わたしが広島に出かけたり、彼が大阪に来たりの逢瀬でした。

わたしたちが出会って半年後には、わたしは、アメリカ行きの目的金額を達成し長年の夢だった渡米の準備です。彼にも後押しされ、アリゾナのツーソンと言う学生町へ。距離を置いて国際結婚についてお互い考える期間を置くためにも、別れ別れになりました。が、結果として、わたしはアメリカ移住の夢を捨て、翌年、大学の英語コースを終えるなり、日本に帰国しました。

わたしたちは結婚式は挙げませんでしたが、親友michikoとかつての会社の同僚ザワちゃん二人に証人になってもらい、京都府伏見区役所に婚姻届を出したあと、このビア・ハウスで常連や会社の仲間たちが祝ってくれたのでした。

黄金時代の重役さんMr.高松曰く、「なに、アメリカから半年で帰ってきたのと同じく、ポルトガルへ行っても、ゆうちゃんはまたすぐ戻ってくるさ。あははは。」

確かに時々帰国はしますが、あれから37年、結局「ふうてんのおゆう」はその名を返上して、海を隔てた向こうはアフリカ大陸があるというポルトガルで、二児に恵まれ子育てに専念し、あっという間に年月は過ぎました。子供たちが成長した後は、日本語教室を開講し、現在は小さいながらも20数名のポルトガル人の老若男女を抱える日本語塾を開いています。日本でよりポルトガルでの生活が長くなった今、ここが終の棲家になりそうです。

わたしが歌ったアサヒビアハウス梅田があった同和火災ビルは改築され、フェニックスビルとなり、ビアハウス梅田は現在、「アサヒスーパードライ梅田」とその名を変え、今も同じ場所、ビルの地下にあり、

今でも月に一度の割で常連たちは集っているそうです。昨年喜寿を迎えたアコーディオンのヨシさんはその会合で会いも変わらずアコーディオンを弾くとのこと、アサヒスーパードライを訪れたら、ひょっとすると、わたしが紹介してきた常連に会えるかもしれません。

わたしの中でのアサヒ・ビアハウスは今も変わらず、少し薄暗くて、大理石柱があり、ヨシさんのアコーディオンと大先輩、宝木嬢の姿がホールに見え、常連たちが立ち飲み席で飲んでいる、あの光景なのです。それこそが、わたしの梅新のアサヒ・ビアハウスです。目を閉じればあの頃の常連たちのそれぞれの持ち歌が今も聴こえて来るようです。

旧アサヒ・ビアハウスの仲間には、塩さん、歯医者さん、土佐さん、A.D.葉室先生、高橋
店長さん、タンゴのおじさんと、もうアサヒには来るにも来られない人たちもいますが、みなさん、
きっと天上で再会し乾杯していることでしょう。このような素敵な思い出を残してくれたみなさんに
心から感謝して、Ein Prosit!


わたしのストーリーは、この後アメリカでの体験記に続きます。



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