司法試験に2度落ち、路上からキャリアをスタートした画家・田中拓馬が、NYで個展を成功させるまで。
ぼくがアシスタントを務めている画家・田中拓馬さんの人生が、現在、何らかの理由で苦しんでいる方たちの希望になると思い、ぜひ紹介したく筆をとることにしました。
※この先は、田中拓馬さんから聞いた実話を元に、代筆して物語を進めます。※
はじめまして。
NY、上海、シンガポール、世界各国を拠点に活動している画家・田中拓馬です。
世界数万点の応募の中からトップ1%に選ばれ、ニューヨークのタイムズスクエアで作品が放映、オランダの美術雑誌からの依頼で表紙を飾り、シンガポールのオークションでも落札。日テレのバラエティ番組「おしゃれイズム」の壁画を担当。
上海では、700坪を超える敷地を持つ大手ギャラリーで日本人初の個展を4度開催。母校・早稲田大学に絵を寄贈。中国版ツイッターのウェイポーでは、1万人を超えるフォロワーがいます。
そして、昨年の7月には、念願だったニューヨークで個展を開催することができました。
ですが、わずか10年前には、司法試験に2度落ち、そのショックから体調を崩し、精神的にも肉体的にもボロボロの状態にいました。
今日は、最底辺の状態から、どうやってボクが這い上がり、世界を相手に活動するようになったかについて、お話せていただきます。
浦和高校→早稲田大学法学部→司法試験
僕は、東京都の下町、江戸川区に生まれ、埼玉県の中では、一番偏差値が高いと言われる進学校、浦和高校に進学しました。
自分で言うのも何ですが、勉強すれば自然と点数のとれる優秀な学生でした。
千葉大学が面白くなくて中退したいという経歴はありますが、無事、早稲田大学の法学部に入学し直すことができました。
3年生になった時に、弁護士になることに決め、1日16時間の猛勉強を開始しました。テープを2倍速で聞き続け、睡眠時間は平均4時間の生活でした。
そして、望んだ初めての司法試験。
結果は、、、
不合格。
当時の合格率は3%でした。
そもそも現役で受かる事の方が大変じゃないか。今までだって、何でも上手くいってきたし、大丈夫だろう。また来年もあるわけだし。
そう気持ちを切り替え、勉強に励み直しました。
そして迎えた、2度目の挑戦。
結果は、、、
不合格。
ヤバイ、、、、どうしてこんなことになってしまったんだろう、、、
初めて味わう絶望感、暗く憂鬱な日々の始まり
人生の中で、これほどまでに深く絶望を感じることはありませんでした。
あまりのショックに、食事も喉を通らなくなってしまい、体調を崩してしまいました。動くことすらできず、一日中布団の中で眠っていたこともあります。
少し元気になった時には、自殺が頭をよぎりました。橋の上から川底を眺め、
"ここから身を投げだしたら、楽になれるのかな"
と考えたこともあります。
リハビリで始めた、絵画との運命的な出会い
そんな先の見えない生活を送っていたある日、小さい頃に、絵を描くのが好きだったことを思い出し、リハビリとして絵を描くことを始めました。
絵を描き始めると、"もっとしっかり学びたい"という気持ちが生まれ、浦和のユザワヤで開校されていた市民向けの美術講座に参加することにしました。
先生に「巨匠のような絵を描くね」と褒められたことが嬉しくて、絵を描くことにのめりこみました。
学校では、絵は、大きく分けて、「色」と「形」と「マチエール」の3要素からなること、どうやったら上手く形をとれるのか、石膏や木のデッサンなどを学びました。
本格的に、絵の世界にのめり込み、普通は入選まで10年かかると言われる県展に、半年で入選を果たしました。
ぼくは、絵を描くことが好きだ。
絵を描いて生活していくには、どうしたらいいのだろう。
リハビリとして始めた絵でしたが、次第に、絵だけで生計を立てる道を模索し始めるようになりました。
大道芸人ピーター・フランクルさんとの出会い
ある日、授業の帰りに、駅前に人だかりが出来ているのを発見しました。
輪の中心を覗いてみると、外国人の男性が大道芸パフォーマンスをしている姿が見えました。
誰だろう。あれ?でも、どこかで見たことある人だな?
その人とは、数学者で大道芸人のピーター・フランクルさんでした。
その時のぼくには、路上でパフォーマンスをするという発想が全くなかったので、衝撃を受けました。


更に驚いたことに彼は、路上に風呂敷を広げ、そこに書籍などを置いて、販売していたのです。


その言葉を聞いた次の日に早速、浦和の伊勢丹前の商店街で風呂敷を広げ、路上販売を始めました。
唾を吐きかけられる!路上販売の厳しさ
自分も路上で絵を売れば、すぐにお客さんが集まるに違いない!
ピーター・フランクルさんの周りに群がる人たちを見て、そう確信しました。しかし、それは想像以上に辛いものでした。
道行くに人々に蔑んだ目で見られ、鬱憤の溜まった中年サラリーマン男性に「どけえ!」「美大へ行け!」とつばを吐きかけらたこともあります。
そこから4年間、雨の日も風の日も、朝から晩まで路上で絵を売り続けました。
リーマン・ショックで世界大恐慌、新天地を求めニューヨークへ
嫌な思いもいっぱいしましたが、画用紙サイズの油彩画を1000円で売り始めると、作品は爆発的に売れました。銀座の和光と三越の前で売ったこともあります。
今では100点以上の作品を持つコレクターの方とのお付き合いも、銀座から始まりました。
売上好調だった矢先、リーマンショックが起こり、売上が激減。海外に活路を見出し、アメリカ・ニューヨークへ売り込みに行くことにしました。
当時は、インターネットも浸透していなかったため、まずは、図書館で借りた本の著者、ニューヨーク在住・アメリカ人ギャラリーオーナーの元を訪ねました。
そこで、ニューヨークのギャラリー地図をもらい、それを片手に、自分の作品を背負い、片っ端からギャラリーを回りました。
しかし、無名の、しかも日本人の画家の相手をしてくれるギャラリーなど当然おらず、全くとりあってもらえません。
散々断られた後、ブルックリンのPIEROGI GALLERYという名前のギャラリーにたどり着きました。
すると、受付の人がかけあってくれ、絵を見てやるから、また数日後に来るように言われたのです。
約束通りに行ってみると「そんな話は聞いていない」と言われ、帰されそうになりました。
ここで引いたら、ここまでの努力が無駄になってしまう!!
そう思った僕は、出来る限りの英語で、とにかく僕の絵を見てくれ!と熱く語りました。
すると面倒くさそうな顔で奥へ入っていき、ナンバー2の男性が出てきました。


作品を壁一面に並べ、じーっと見つめている彼。
沈黙、、、、
そして遂に、彼の口が開きました。

こうして、ニューヨークでの作品取り扱いが決まることになりました。日本に帰国するチケットの日付、わずか数日前の出来事でした。
念願のニューヨーク個展、株式会社アートラバーズ設立
2015年、NPO団体「Chashama Gallery」から依頼があり、念願だったニューヨークでの個展を開催することができました。
展覧会は大盛況、絵を購入していただいたお客様の中には、世界180カ国、850万人に購読されている雑誌「ナショナルジオグラフィック」のエクゼクティブ・プロデューサーの方もいました。
2015年末には「全ての人が自由に表現することができる世界の創造」を目指し、設立し株式会社アートラバーズを設立、代表取締役に就任しました。北浦和にアートのセレクトショップ「アートの台所」をオープンし、ワークショップやTシャツ販売などを中心に活動を行っています。
今は少しずつ、色んなことが軌道に乗ってきていますが、この先も人生何が起こるか分かりません。
ぼくも、一度は人生に挫折し、寄り道をした人間です。
この記事が、悩んだり苦しんだりしている人の何か力になれば幸いです。
長い間、読んでいただきありがとうございました。
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