全国でたった20人しかいない字幕翻訳者になることを決めた、12歳の私へ
拝啓 12歳の私へ
こんにちは。25歳の私です。いきなりで恐縮だけれど、いくつかお話したいことがあります。
1.学校はあいも変わらず楽しくないだろうけれど、それでも辛抱強く通い続けて下さい。
2.ミッキーのキーホルダーを指定鞄に付けていかないようにして下さい。目の前で盗まれます。
3.卒業文集では、恥ずかしがらずに、自分の夢を高らかに宣言して下さい。
4.望めば、必ずチャンスは巡ってきます。約束します。
当時12歳の私は、茨城県の中でもド級の田舎町に住む中学1年生でした。まさに「井の中の蛙」であった私の中に走った一瞬のきらめきが、その後の人生を左右することになったのです。今回はそんなお話をするため、キーボードを叩くことにしました。
ここで話は逸れますが、私の脳は日々巨大化しているような気がします。換言すれば、頭の中で何かを考えるという動作を、インターネットというものに”アウトソーシング”しているような気がするのです。「インターネットは、人の思考を止めた」と言う人がいますが、そうは思いません。
どうしてこのお話を書くことにしたのかというと、まるで星間飛行をするようにして、巨大な脳の中を駆け巡った時に、この出来事にすぐ当たれるようにしたかったのです。ひときわ光る一番星のように、私の今後の指針を示してくれるものにしたかったのです。
さいきょうの字幕翻訳者
タイトルの通り、このストーリーは12歳のある日から「字幕翻訳者」を志すようになるまでのお話です。
「字幕翻訳者」と言うと、戸田奈津子さんの顔が思い浮かぶ方も多いのではないでしょうか。そうそう、よくトム・クルーズの隣で通訳をなさっている、メガネをかけたおばあちゃまです。
戸田奈津子(とだ・なつこ)。1936年7月3日生まれ。字幕翻訳者。トム・クルーズをはじめ、著名な映画関係者やハリウッドスターが来日する際には「彼女を通訳に付けて」と直々に指名が来るほど絶大な信頼を得ている。かつて「字幕の帝王」と称された清水俊二氏に師事し、字幕翻訳者としてのキャリアを1970年代からスタートさせ、現在に至るまで1500本以上のハリウッド作品に字幕を付している。「字幕翻訳業界の第一人者」「字幕の女王」と呼ばれて久しく、現在も精力的に翻訳活動を続けている。
「スター・ウォーズ」を観て、青春の血潮がたぎるような経験をされた方もいるでしょう。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で主人公と一緒に未来・過去の世界へトリップされた方もいるでしょう。
「アルマゲドン」を観て、大切な人との時間は有限なのだと痛感した方もいるでしょう。
「ハリー・ポッター」を観て、何の変哲もない木の棒をぶんぶん振り回した経験をされた方もいるでしょう。
そうした数々の思い出の傍に必ず、戸田さんの字幕がありました。現在私が思い浮かぶ「さいきょうの字幕翻訳者」とは、紛れも無く彼女です。
映画好きの3歳児
戸田さんをはじめとする字幕翻訳者を志す方々は、例外なく海外ドラマや映画が大好きなのだそうですが、かくいう私も3度の飯より映画が大好きです。母が映画フリークであるが故に、その影響を受け、3歳の頃から字幕付きの映画を観ていたそうです。
母は、スティーブン・セガールやスタローンなどのアクション映画を観て「Foooooo!!」と叫ぶのが大好きです。真夜中になると家中真っ暗にして、ロメロ作品をはじめとするゾンビ映画、J-ホラー映画を静かに鑑賞するのが大好きです。幼いころの思い出はいつも、ブラウン管が放つ光に照らされた母の横顔がありました。
そんな母の元に生まれてきたものですから、私の幼少期と共にあったのは「沈黙の戦艦」「ロッキー」「ランボー」「暴走特急」「エイリアン」「酔拳」「ツイスター」「トゥルーライズ」。
特に「酔拳」の食事シーンは今も印象深いものですし、「トゥルーライズ」のヘレンを真似て冷水でオールバックにしたことも記憶しています。そして幼き私のロールモデルは「ツイスター」のジョーでした。「エイリアン」の主人公・リプリーとも重なる”強い女”になるぞ、とほんの小さな子が思っていたのですから、相当アレですね。
▲「トゥルーライズ」のヘレン(ジェイミー・リー・カーティス)。セクシーなのにどこか可笑しい。
▲左:「ツイスター」のジョー(ヘレン・ハント)。泥にまみれても美しい。
「学ぶ楽しさ体験記」
時は経ち、私は陰キャラ中学生へと成長します。
ただひたすらに映画鑑賞と読書と勉強に明け暮れ、携帯電話も持っていません。好きな異性は英語の先生。そして、友人はほぼゼロ。…お察しの通り、一時期ほんのちょっとしたイジメにも遭っていました。陰口、「◯◯菌」に始まり、UFOキャッチャー好きな母が取ってきてくれたミッキーのキーホルダーを堂々と盗まれる始末。言わずもがな、「強いオンナ」からは程遠いキャラでした。
しかしそんな私が唯一拠り所にしていたのは、「学ぶ楽しさ体験記」の存在でした。字幕翻訳者になると決心するまでのお話は、ここから始まります。
「学ぶ楽しさ体験記」とは、2003年当時茨城県教育委員会が主導で実施していた”全教科版・自由研究”のようなものです。この「学ぶ楽しさ体験記」に取り組むことが、夏休みの課題のうちの1つでした。とりあえず自分で好きなテーマを掲げ、それに沿って研究みたいなことをして、その成果を文章にまとめて提出すればよい、そんなことを先生は仰っていました。
エアコンのない教室はクソみたいに暑くて、全くやる気がなかったので、細かい説明は全く記憶にありません。
(家帰ったら何の映画観よう…”アレ”は全然観れないしなあ…)
”アレ”とは、母が海外から取り寄せた、とあるアクションSF映画のビデオテープです。当然ながら日本語字幕は一切なし。私の乏しい英語力では全く太刀打ち出来ず、鑑賞を諦めていたのです。
(……あ、それ、テーマにしよ)
そうして私のひらめきは、「映画で話すセリフを聞き取ろう」という形のレポートになりました。
自己満足
そのレポートの内容とは、非常に単純なものです。
映画の登場人物が話す台詞のうち、自分が聞き取れた単語を全て拾い上げることにしたのです。たとえ聞き取れた単語が”at" "hello" "let's go" "what"でも、とにかく書き殴っていました。
私が題材に選んだのは、何度でも観られるほど大好きな「ハリー・ポッターと賢者の石」と「ハード・ターゲット」の2作です。
※後者の主演はジャン・クロード・ヴァンダム。映画ファンならご存じかと思いますが、「男たちの挽歌」「MI2」で有名なジョン・ウー監督が初めてハリウッドに進出した、記念すべき作品です。…それを題材に選ぶ12歳の私って…。
1度鑑賞して聞き取れるようになった単語、2度鑑賞して聞き取れるようになった単語、そして3度鑑賞して聞き取れるようになった単語…。意識して聞き取ろうとすると、鑑賞回数に比例して聞き取れる単語数が増えていくのです。自分の成長を感じられるし、何より大好きな映画も観られる!その作業は、全く苦ではありませんでした。
そして、ただ単語を拾い上げていただけでなく、振り返りにも余念がありません。
「なんでこの単語を聞き取ることができたんだろう?」
「この単語はどういう時に使われるんだろう?」
「この単語は、学校の授業で習った意味と、作中での意味が違うけど、なんでだろう?」
そんなハテナを1つ1つ解明していく文章をWordファイルにしたためました。主旨から外れているのに、私なりの映画評論もそこに書きまくりました。ヴァン・ダムのアクションがどうとか、ヒール役のランス・ヘンリクセンの眼差しがセクシーだとか、もはや自己満足の領域に突入していますが本人はノリノリで映画評論家ぶっていました。
▲「ハード・ターゲット」のヒール役、ランス・ヘンリクセン。「エイリアン2」のアンドロイド役としても知られています。
…結論から言うと、そのレポートは優秀賞を受賞しました。
県内から数多くの応募作品があった中で、たった数作品しか選ばれない、素晴らしい賞なのだそうです。「だそう」と書いたのは、歓喜に沸く先生方を横目に「なんだ、自分の好きなことで優秀賞がもらえるなんて、楽勝じゃないか」と軽く考えていたためです。換言すれば、自分は簡単に地球を回せると考えていました。なんという糞ガキなのでしょうか。
字幕翻訳者という職業があるらしい
一端の映画評論家ぶった私は、ついに字幕にも文句を付けるようになりました。



…なにそれ、そんな職業、あんの?(超絶エクストリーム衝撃)
これまで字幕の恩恵は大いに受けていましたが、「字幕を付ける”だけ”の職業」があることなど、ついぞ頭に思い浮かばなかったのです。あまりの衝撃に本気で打ち震えました。台詞を聞き取って、それを自分の思う翻訳にできる。レポートを書いてきた楽しかった日々が、一生の仕事にできるなんて、マジで超最高じゃん!
その瞬間から私は、「字幕翻訳者」を目指すことにしました。
字幕翻訳者って、なにをするひとなんだろう
私はその後、必死になって「字幕翻訳者」の正体を調べることにしました。そこで分かったのは、
・字幕翻訳者は日本に20人程度しかいないらしいこと。
・「こうすれば字幕翻訳者になれる」という王道ルートがないということ。
・台詞を聞き取ってそれを字幕にするわけではなく、スクリプトを元に字幕を作るのだということ。
・登場人物が話す台詞の1秒間あたり4文字しかスクリーンに映し出せないということ。
・映画の世界観を落とし込む字幕翻訳は非常に難しい作業であるということ。
・そして、今一番有名な字幕翻訳者は、戸田奈津子であるということ。
…やるからには、日本で一番有名な字幕翻訳者になって、戸田奈津子を超えたい。
私の夢が「さいきょうの字幕翻訳者になること」と定まってから、一気に”字幕”という世界に引き込まれるようになりました。ただ映画のストーリーを追うだけでなく、出来る限り耳をダンボにして英語を聞き取るようになり、かつ、字幕に対して一層批判的な目を持つようになりました。
ちなみに「学ぶ楽しさ体験記」は、その翌年の夏も、翌々年の夏も、テーマを少しずつ変えながら執筆しました。優秀賞が欲しかったからではなく、もはやレポートを書くのが楽しかったからでもなく、いつかさいきょうの字幕翻訳者になりたいと思ったからです。結果として3年連続で優秀賞を受賞することとなり、3年目には県庁大ホールでプレゼンテーションをする大役を担いました。
プレゼンをする前までは、満員の大ホールの中で埋もれた”陰キャラ女子中学生”でした。しかし、ひとたび登壇すれば、他の受賞者やオトナたちが「すごいね」「おめでとう」「偉いね」なんて言いながら、”陰キャラ”の私を囲うのです。
「ちょっとステージに立っただけでみんな私に良い顔を向けてくるのか、人間ってこんなものだ」
…なんて思っていたのです。中学3年で「人間はこんなもの」と考えていたのです。糞ガキ、ここに極まれり、といったところでしょうか。
いつしか私にとって「学ぶ楽しさ体験記」の一連の出来事を、「唯一の拠り所」ではなく「さいきょうの字幕翻訳者になるまでの通過点」として捉えるようになりました。
▲これが3年間の賞状です。画像からは伝わりませんが、結構デカい。
翻訳通訳学という学問があるらしい
中学生活を終え、高校に入学すると英語部に入りました。字幕翻訳者になるためには英語力を磨かなければならないと考えたためです。
今度は大学入試が目前に迫ると、私はAO入試という入試形態を選び、大学教員に向って「戸田奈津子の字幕がいかにダメダメか」というテーマでプレゼンテーションを行いました。私がいかに戸田奈津子にも勝る「さいきょうの字幕翻訳者」になろうとしているか、必死の形相で訴えました。
今度は卒業論文の執筆期間が目前に迫ると、私は”翻訳通訳学”という学問の存在を知ることになります。
※翻訳通訳学とは、「翻訳と通訳の現象と理論に関する研究」(「よくわかる翻訳通訳学」、ミネルヴァ書房、2013年、P.iより抜粋)であり、主たる研究対象は「原著者/原発言者が生み出すテクスト/メッセージと訳者が生み出す訳出物との関係、それらを取り巻く社会文化的コンテクストとの関連」(「よくわかる翻訳通訳学」、ミネルヴァ書房、2013年、P.iiより抜粋)です。
※本当にシンプルにざっくりと言ってしまえば、”訳される「前」の発言あるいは文章”と、”訳された「後」の発言あるいは文章”は、どういう関係にあるのか?ということや、そうした「訳される前後」の関係は、社会的・文化的な背景とどんなふうに関わっているのか、ということです。
この翻訳通訳学の理論的枠組みを用いて、私は字幕翻訳に関する研究を進めました。ちなみに在籍していた大学では翻訳学を体系的に教えて下さる先生はいなかったため、全て独力で勉強しました。
斯くして論文執筆を進めるにつれ、「さいきょうの字幕翻訳者」になるにはきっとテクニックだけではなく学問的な知見も持ち併せておく必要があるのではないか、と考えるようになります。
だから、私は立教大学大学院に進学した
手始めに「翻訳学 大学院」というワードを打ち込み、どんな大学院で翻訳学を学ぶことができるのかを調べました。
(…立教大学…異文化コミュニケーション研究科、か…。)
なぜか「立教大学」という文字と「翻訳学」が脳の中で紐付き、手元にあった「翻訳学入門」という学術書の訳者一覧をパラパラめくると、
「立教大学大学院 異文化コミュニケーション研究科教授」
「立教大学大学院 異文化コミュニケーション研究科特任教授」
「立教大学大学院 異文化コミュニケーション研究科博士前期課程修了」…。
誰も彼もみんな立教大学大学院異文化コミュニケーション研究科かい!
Ctrl+CからのCtrl+Vか!
…なんてツッコミを思わず入れてしまうくらい、訳者の方々全員が同じ学舎にいたのです。
「翻訳学入門」は学術書ゆえ一筋縄ではいかないほど難解な内容でしたが、それでも「さいきょうの字幕翻訳者」になるためのエッセンスがあるように思えてならず、私にとってのバイブルでした。それを翻訳した人々が、全員同じ場所に集まっている…。立教大学大学院を調べれば調べる程、国内で最も通訳翻訳学の研究が進められている場所だと知ることになります。
(よし、ここで字幕翻訳の研究をして、さいきょうの字幕翻訳者になるぞ)
そう決意したのは、出願日を目前に控えたある日のことでした。
慌てて研究計画書を練り、出願の手続きを済ませ、ろくに受験勉強もしないまま入試当日を迎え、大汗をかきながらペーパーテストを受け、教授陣からコテンパンにされる面接を受けました。圧倒的な準備不足を認識し、”不合格に違いない”と池袋駅のJR中央改札前でひとり大号泣。とぼとぼ帰路につきました。
…が、結果は合格。倍率も高い中でどうして合格したのか未だに分かりませんが、きっと「さいきょうの字幕翻訳者」になることへのパッションが教授陣に伝わったのかもしれません。
修士論文
ご存じの方も多いかと思いますが、大学院では「修士論文」の執筆を避けて通ることはできません。
私の研究の出発点は「なぜ戸田奈津子さんは、日本で一番有名な字幕翻訳者なのか」。
「さいきょうの字幕翻訳者」になるためには、今現在「さいきょうの字幕翻訳者」として位置付けられている戸田さんの全てを知る必要があると思ったのです。
なぜ戸田さんの字幕が日本中の映画ファンを魅了し続けているのだろう?
戸田さんが生み出した字幕に関する議論がなぜ沸き起こるのだろう?
なぜ字幕翻訳について知識が乏しい人でさえも戸田さんの名前を知っているの?
なぜ字幕翻訳者である戸田さんをハリウッドスターたちが自身の通訳に指名するんだろう?
彼女の字幕翻訳者としてのキャリアから生起された現象ばかりではなく、きっと”戸田奈津子”の人となり(≒アイデンティティ)や、あるいは彼女のバックグラウンド、そして彼女が生きた社会や文化が全て重なり合って、「戸田現象」というものが起きたのかも…。
細かい方法論をここに書くことは避けますが、ライフストーリーインタビューの代わりに何十媒体もの文献をかき集め、彼女の生き方を”ライフヒストリー研究”という形でトレースしました。彼女の全てを、ありったけの愛を以って「科学」することにしました。
ガチの論文をガチで書くということは、かつての「学ぶ楽しさ体験記」と大違いの”苦行”。人生山あり谷ありとは言いますが、私の場合は山も谷も凄まじく急勾配。とにかくキツい。ただ「さいきょうの字幕翻訳者」になりたい、戸田奈津子に近づきたい、という情熱だけで書ききりました。
望めば、必ずチャンスがやってくる
執筆中、何度も戸田奈津子という人物が乗り移った感覚に襲われました。
彼女とあまりに共通点が多く、「もしかしたら私は戸田奈津子かもしれない、というか戸田奈津子だ」と思って、慌てて鏡を見に行きましたが普通に矢野恵美でした。
戸田さんは字幕翻訳者を志してから、20年間にわたって下積みをしていました。「字幕翻訳者になる」という強い思いを持ち続け、目の前の課題に真摯に向き合い、今という時間を楽しんで生きてきた女性です。そんな彼女と私の共通点は、”強く望んでいた結果、それらしいチャンスが巡ってきた”という点です。
今一度、12歳の私に伝えたいのです。必ずしも、努力が報われるとは限りません。ただし、強く望めば、”それらしい”チャンスは必ず、自分の元にやってきます。自分の夢に直結するチャンスではないかもしれませんし、後から振り返った時に初めてそれがチャンスだったのだと気づくようなものかもしれません。
話は逸れますが、12歳の私は「さいきょうの字幕翻訳者」が戸田奈津子さんだと知ってから、どうしたら会えるのかを考えていました。うら若き戸田さんは、電話帳で「字幕の帝王」である清水俊二氏の住所を調べて手紙を出したそうですが、タウンページを探しても「戸田奈津子」なんていう文字はありません。
※あまりにお話がしたくて、中学時代、大手映画配給会社の日本ヘラルド社に電話を掛けて「戸田奈津子さんの連絡先を教えて下さい」と電話したくらいです。日本ヘラルド社の方は私の熱意を汲んで下さり、「戸田さんに問い合わせてみます」と仰って会話を終えました。後日、「教えられない」という旨に加え、「戸田さんは『字幕の中に人生』(著書)を読むように仰っていた」という内容が書かれたFAXを頂きました。今思えば、恐縮しきりです。
大学時代、とある字幕翻訳コンクールの授賞式で戸田さんにお目にかかる日がやってきました。ただの観覧者だったのでお話することなど叶いませんでしたが、小指の先のような大きさの戸田さんを目の当たりにした時、涙が溢れそうになりました。
そして修士論文を執筆する直前、学友から「ある学会の基調講演に戸田奈津子が登壇するぞ」という通報を受けました。最前列に座って待つこと数分。目の前に現れたのは、小指サイズではなく、等身大の戸田奈津子さんでした。それだけでも感激していたのですが、質問タイムを使って初めて会話を交わしたのです(!)。緊張でマイクを持つ手が震え、何を質問したのかも覚えていません。
最後に、製本した論文をインタビューの協力者の方々にお渡しした日のことです。論文の分厚さに大変驚かれ、こそばゆくなるほど褒めて頂きました。そして一言、こう仰ったのです。
「もし矢野さんが良ければ、これをぜひ、戸田さんに渡したいなあ」。
実際にその方々が戸田さんに私の論文をお渡ししたのかは分かりません。しかし、リップサービスなんかではなく、真剣にそう仰ったのです。今まで25年間生きてきて、最も喜しさが込み上げてきた一瞬でした。
字幕翻訳者という職業が存在する、という事実を初めて知ったあの日よりも、もっと生々しく、リアルな衝撃が、私を貫きました。次の瞬間に「強く望めば、チャンスは必ず、自分の元にやってくるのだ」、そう痛感したのです。
言ってしまえば、強く望んだところで「さいきょうの字幕翻訳者」になれる保証などありません。本当に自分の望む職業に就けるのか、今も不安で仕方ありません。
けれど12歳のあの日から、1度だって夢を捨てたことはありません。中学時代の卒業文集には私の拙い字で「字幕翻訳者になる」「いつか、映画のエンドクレジットに”字幕翻訳 矢野恵美”と白い字で浮かび上がるのを見てほしい」と書かれています。
12歳の私へ。
「さいきょうの字幕翻訳者」になれるのだ、ということを、私の人生をもって必ず証明します。
25歳の私より、愛をこめて。
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