ばあちゃんドクターヘリに乗る

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 窓の外を、白い空が後ろへ後ろへと飛んで行く。

 私は今、『ドクター・ヘリ』の中。揺れもなく音も静かで思ったより快適である。もちろん、この胸の痛みさえなければの話だが……

 八月十日、土曜日、午前九時五十分。私は急性心筋梗塞の発作を起こした。

 十時に始まる文章教室に出席するため、いつもの会場へ到着したところであった。行きのバスの中で既に、胸にひやっとする違和感があった。

……なんと強い冷房なんだろう。早く降りたい……と思った。

 佐倉駅に着きホッとして暖かい車外へ出てミレニアム・センターへの階段を上った。会議室に入り五分としないうちに、鎖骨から肩にかけ痛みが襲ってきた。喉も締め付けられるようだ。そのうち汗がどっと出て来た。

 隣の席のMさんに、「ちょっと気分が悪いので、廊下のソファに横になって来ます」と、声を掛けて席を外そうとした。私のただならぬ様子に驚いたのか、Mさんはすぐ立って、「大丈夫?」と言いながら、私を抱えるようにして廊下へ出た。顔から血の気がさっと引き、手足の先が冷たくなる。

 ……これは只ごとではないぞ。ここで迷惑を掛けるわけにはいかない……

 普段は優柔不断の私もここでの選択肢は一つだけだった。

「救急車を呼んでください」ソファに私を寝かせ、靴を脱がせ、寒い寒いと言う私にスカーフを掛け、Mさんは何事かと集まってきた人に向かって、「救急車を、救急車を呼んでください。急いで!」と声を張り上げた。

 Kさんが素早く携帯電話で「佐倉のミレニアム・センターの三階の会議室。心臓が苦しいらしいです。京成佐倉のミレニアム・センター、ミ・レ・ニ・ア・ム・センターです」と大きな声で伝えているのが聞こえる。年齢・姓名も尋ねられたらしいが、幸い会員名簿がKさんの前にあるので、スムーズに答えている。

 ところが、「えっ、電話番号?人の携帯借りてるんだもん。番号なんてわからないよーうっ」と、絶叫する。いつもは女親分。でんと構えて何事にも動じないようなKさんも相当なパニックに陥っているみたい。

……なんて私が言える立場じゃないけれど……

  しかしこれ以上は、周りの騒ぎに気を取られる余裕もなくなった。吐き気を催し、その気配に気付いてMさんが手早く用意してくれたポリ袋の中へ、私は今朝食べたものを……こんなに食べたかしら……と不思議に思いながら、次から次へと吐き出した。痛みも苦しみも最高潮。それに死の恐怖が重なる。

 十分くらいしただろうか。ピポピポとサイレンが近づいて来る。なんとなく間の抜けた音に聞こえるのはどうしてだろう。

「ほら、救急車が着いたわよ。今、タンカを下ろして昇って来るから。もう心配しないで大丈夫よ」と、Mさんが静かに励ましてくれる。この声と落ち着いた態度がどんなに有り難かったかしれない。

 一通り、名前、生年月日、いつから、どういう症状が起こったのか、持病はないかなど次々尋ねられる。救急車に乗るとさっそく、血圧、心電図、脈など測り始めたらしい。

「血圧出ません。『ショック状態』です」

「心電図」…答えなし

「下着、切りますがいいですね」

 隊員の一人がマイクに向かって、「ドクター・ヘリ要請」と言っている。

「心電図の状態が悪いのでドクター・ヘリを要請します。城址公園へ着陸してください」

 ドクター・ヘリ?聞いたことはある。テレビでその活躍を見たこともある。 しかし自分とは縁のないものと決め付けていたので、ここでこの言葉を聞いた時は、既にもうひっくり返っていた心臓がもう一度ひっくり返った。

……どこへ連れていかれるのだろう。もう生きているうちに夫にも息子たちにも会えないかも……

……「死に目に会えない」……

 ここまで考えてもう一人の私が言う。いや、「死に目に会えない」ではおかしい。死ぬのは私なんだから。何と言えば正しいのかな。文章教室のM先生の顔が浮かぶ。

「池上さん、これは何ですか、死ぬのは誰ですか、あなたでしょう?」

「死に目に会って貰えない」かな。いや、誰も私の死に目に会えない」のほうがいいかな。頭の中をこれらの言葉が駆け巡る。エッセイスト根性もここまでくれば一人前かなと思ったりする。

 

 五分もしないで城址公園到着。行く先も日医大北総病院と決まり、夫にも連絡が取れたと知らされて一安心する。

「ヘリ到着しています。ドクターも降りて待っています」との声に、首をそっと回して外を見ると、可愛らしいヘリコプターが公園の緑に映え、白衣のドクターの姿が二本の白いチョークを立てたように見えた。木陰と、夏のギラギラした日差しの中を、タンカは飛ぶように走る。つぶった瞼の上を、明と暗が縞模様のように交互に走る。

 狭いヘリコプターの中、二人のドクターが私の上に覆いかぶさる。点滴の管をつないだり、痛みの度合いがどの位かを常に確認しながら、同時に病院との連絡も取り続ける。窓の外を白い空が走る。

 私は今ドクター・ヘリに乗っているんだ。孫に自慢しなくちゃ。いつも難しい電車の名前を並べ立てて、私をペシャンコにしてくれる三歳三カ月の乗り物狂の孫。今度だけはバアバの勝ちだ。

「池上さん、池上さん。着きましたよ」

 気付かぬほど静かにヘリは着陸し、またもや猛スピードでストレッチャーは処置室へ走る。既に準備は整えられ、心臓の担当医がスタンバイという手際のよさである。私はといえば、相変わらずの胸の痛みに息絶え絶えながらも気持ちは落ち着いていた。

 心電図、血圧、血液内酸素の測定器やモニターなどの管がつながったスパゲッティ状態ではあるが。

「ブラウス切りますが、いいですね」「はい」と答えつつ思う。

 えっ、今日どのブラウス着てたっけ? スワトウの刺繍のやつ? まあいいか。実はどのブラウスにしようか、その朝だいぶ迷ったのだった。

 今日は文章教室の前期の打ち上げで、午前中の勉強が終わると席を移し、共に昼食をしてさらにカラオケパーティーという一大イベントの日だったのだ。 迷ったもう一方は、妹が誕生日にプレゼントにくれたウン万円の麻の、これも凝った刺繍の白いブラウス。でも食事だから食べこぼしたら勿体ないなと思って止めたのだった。

 ……ああ、麻の方のを着て来なくてよかった……

 一体私はこんな非常時に、こんな所で何を考えているんだ。女ってのは逞しいというのか、ガメツイというのか、選りによってこんなことを考えなくてもいいのに……。

 でも私だけかな? 少し人とずれて居るのかも。

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