航空自衛官として28日間、3.11と戦った話

そこにあったのは「絆」なんかじゃなく、淡々とした「事実」だった。


◆あの日は・・・・・


当時僕は、沖縄の航空自衛官でした。

那覇で通常は人事、有事は隊員をオペレーションをする、いわゆる司令部勤めの自衛官。


そして、あの日、僕は20歳の誕生日を迎えました。


異動も多くたいへん忙しい時期でしたが、

航空自衛隊では初めての"ALL JAPANの緊急放送"のアナウンスで一変しました。


沖縄地方はご存知のとおり防衛上の"ホットスポット"であったため、突発的な訓練には慣れっこ。いつもどおり、指揮所に向かったのでした。


しかし、モニターで状況を見ると


日本地図全体を赤黄色の津波警報が点滅。


防衛出動ではないにしろ、こういう日が来るとは。


僕は淡々と誕生日の宴会を自分でキャンセルし、急遽組まれたシフト体制で夜通し対応を行っていました。


◆現場で見たもの


「メルトダウン」「シーベルト」という言葉が世間に馴染んだころ、


僕は志願して第2次要員として宮城県松島基地に行きました。


いろいろな感情が渦巻いた2週間でした。


・基地内清掃。

そもそも支援の受け口の基地が大荒れだったので、基地内清掃に徹したやるせない3日間。


・部隊の新設。

4/1に臨時で新設した部隊"災害復旧支援隊"の人事割り当て。僕はここで、自分をオペレーションじゃなく現場の最前線へと置きました。


・遺体捜索。

泥の地平線と化した地区を、数十人で一列になって行いました。遺体は出ませんでしたが、流されたアルバムや食器はごろごろ。他の地区では、自分の子供と同じくらいの子の遺体を見つけて泣いていた自衛官もいたそうです。


・民家の清掃

強烈な体験でした。野蒜(のびる)地区の泥に埋まった家々を徹底的に清掃する激務。

40代の夫婦は、僕らを清掃業者としか見ていなくて、巨大な民家に散らばる泥だらけの家財を「それはこっち、これはあっち」とさんざんに使われました。あそこにはなにも優しさは宿っていなかった。心がすっかりすさんだ現場だったのです。


・キャンプ

基地内につくられた南西部隊のスペース。

泥だらけになって戻ると、横になれるだけの待機車で缶詰飯。隣に来ていた米軍と煙草を吸って話す仲になり、マウンテンデューを分けてもらったりしました。


◆振り返ると

だいぶハショった内容でしたが、色々なことが起きすぎていました。


「絆」など現場には何もなく、事実だけがありました。みなさんは炊き出しに淡々と並び、基地内のお風呂に淡々と誘導されていました。そこに「しっかり並んでいる」だの、感情を植え付けているのは周りだけなのです。


その2年後僕は退職し、ミャンマーへ行き、東京に来て、新会社の代表となりました。


しかし、今日のように

これから死ぬまでずっと、誕生日を迎えたら、あの日を思うのでしょう。


寒くて小雪が散らつき、

余震が続いて、

自販機もなにもなかった日々。


またいつか、あの野蒜地区に行きたい。


行くからには、あの時のようにスコップで泥をひとすくいするくらいの貢献をしたい。

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