アリゾナの空は青かった【26】最終章・ケンタッキーイン、今も変わらぬままで
思い立ったら後先も考えずすぐ実行する、その即行動力に一番驚いたのは、恐らく広島で春に帰国を待っていたポルトガル人の彼の人(現夫)でしょう。 関西空港がなかった当時、伊丹空港まで出迎えに来てくれた二人の元同僚とそのままアサヒ・ビアハウスに向かったわたしをいつものように迎えてくれたのは、相変わらずの常連たちである愉快なアサヒの仲間でした。
アパートは引き払い、家財道具という道具は一切合財売り払って渡米したわたしです。行くアテもなく、まさに「ふうてんのユーコ」の名にふさわしく、その日の宿のことも考えず、アサヒの仲間達との再会にビールで乾杯し、歌姫カムバックでした。
オフィス時代のチーフと仲間たちがさっそくビアハウスに顔出しに^^
翌年、1979年3月の婚姻の事務的手続きまで、わたしはどこにいたかと言うと、今では根来塗りをしながら、彫刻家となった我が元同僚であり親友のご両親宅にしばらく居候したのであった、
今は亡き我が親友のお父上の「娘3人がもう一人増えて4人になったとて、どうということはなし。うちへいらっしゃい。」の一言には、人を大きく包む人生哲学がうかがえる。わたしはその親友の三姉妹の家に転がり込み、乙女四人で枕を並べて寝たのであった。
親友とわたしの関係はと言うと、彼女はわたしが勤務していたオフィスの後輩で、7つ8つ年下。後先考えずに行動に移すわたしとは対照的に、彼女はおっとり型。それもそのはず、京都のダ○女卒なのだが、芯はしっかりしている。どういうわけか気が合い今もって交流が続いており、わたしの帰国時にはできるだけ大阪を訪問することに
している。
さて、3月のわたしたちの婚姻届には二人の証人が要り、一人はその親友と、もう一人は、いつの間にかツーソンから帰国していた、かつての会社の同僚であり、アメリカ留学の同窓生でもあった「ザワちゃん」であることを付け加えたい。
夫とわたしはセレモニーは特別にせず、届けを出した当日の夕方に、常連や友人達がアサヒに集いそこでお祝いを受けたのだった。いかにもアサヒの歌姫、ふうてんの最後にふさわしい。
後年、我がモイケル娘に、「おっかさん。結婚式の写真はないの?」と聞かれたことがあるが、ござんせん。あるのは、二人で正装して写真館で撮った記念写真のみ。
3月、我が夫となった人は、一足先にポルトガルへ一人帰国し、ミセスとなったわたしは、5月の渡航まで今度は横浜の叔母の家に居候。あっちでもこっちでも、居候しては皆様に迷惑かけててきたのではあった。
1979年5月、ポルトガルを3人で新婚旅行することとなる、夫の日本人の親友Dr.D氏と二人で、パリ経由で成田を飛び立ち、生まれて初めてポルトガルという地に足を踏み入れたのである。
中継地パリでポルトまでの乗り継ぎまで8時間も待ち時間があったため、いったんパリ市内へ出て少し歩いた。この後のわたしの生活は、「ポルトガルよもやま話」につながる。
最後に、先だって初めて、ツーソンの我が下宿先が今はどうなっているかと、住所を覚えているので、検索してみた。当時の女主人が存命かどうかも分からない。住所と下宿名「ケンタッキーイン」で探ってみましたがなかなかヒットせず。何しろ37年も昔のことです。ほとんど諦めかけたとき、ストリートビューで見つけることができました!見つけることができたのは、いやもう、建物が昔と変わりない姿であったからだ。
1978年のケンタッキーイン。
現在。
ほとんど変わっていない。まだ、下宿やなのだろうか。看板はあがっているのだろうか。ここにわたしの青春の一コマがあったのだ。変わらぬ姿でツーソンに建つこの家に再会したわたしは懐かしさと嬉しさで、写真の家に見とれてしばし思い出に浸っていた。
ということで、「アリゾナの空は青かった」、これを最終章にしたいと思う。
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