思い出のバスに乗って:蛍雪時代

父は頑固な上に理不尽なところの多い人であった。
わたしは密かに父をして、「このクソ親父」と内心何度思ったことであろう。
わたし達姉妹が幼い頃は、岩手の盛岡競馬場で騎手をしていた人である。よって年中家にいた試しはなく、母とわたしたちは弘前の祖母の家に、父は盛岡にと家族別居生活を余儀なくされていたのだ。
   
今でこそ、競馬と言えば花形スターのような趣があるが、この時代は言ってみれば職業とも言い難かった父のこの仕事は当時は「ヤクザな仕事」だったとわたしは今でも思っている。
   
父親が家を留守にしていては収入はなし。母とわたしたち姉妹は、祖母の家でかろうじて食い繋いでいたと言えようか。それが、少し年もいって来て、体重が増え始めると同時に騎手の仕事ができなくなり、
わたしたちのもとに舞い戻って来た。菊池寛の「父帰る」であります。
   
それまで母は経済的に苦労してきただろうが、祖母の家で大家族と暮らしていたわたしは父親の不在をさほど感じたことはなかったと思う。それが、思春期に入る中学生の頃、ひょっこり帰ってきたわけで、父の存在にはいささかとまどいを感じずにはおられなかった。

父は定職につけない人で、わたしたち家族の生活は結果的に父が帰ってきたことによって苦しい経済状態から抜け出すということにはならなかった。
   
思春期まっただなかの高校時代のわたしは好きな学課を除いて他は、皆目勉強もせず、もっぱら図書館から本を借り出して、だたただ読書に熱中しては、本の世界に逃げ込んでいた。

「知と愛」「狭き門」「谷間の百合」「ボバリー夫人」「チャタレイ夫人の恋人」「若いウェルテルの悩み」「凱旋門」とあげ連ねてていけば、きりがない。わたしはこれでもか、というくらいに図書を借りまくっては何かにとり憑かれたかのように次々と外国文学を読破していったのである。

想像力を逞しくすれば、読書に浸っている間は、少なくとも貧困の現実から逃れて自分の精神を自由に遊ばせることはできる。

あぁ、それなのにそれなのに。
ある日理不尽な父は言う。
「女は勉強せんでよろしい。本日より午後10時、消灯なり。」
それはないでしょ、おとっつぁん。
   
その日から夜10時になると、自分は高いびきかいて寝、消灯である。二間しかない埴生の我が家、電源はオヤジ殿の寝る部屋にあるのでありまして。

父の寝静まった頃合を見計らって、月明かりでそ~っと父が寝ているの部屋へ忍び込み、これまたそ~っと電源のレバーに手をかけ、挙げようとするその瞬間!「何してるんだ!」と、怒声が起きて叱責であります。いびきかいて寝てたんじゃないのか!

これでは本が読めぬ。そこでわたしは考えた、うんと考えた。 そして見つけた方法。それは、細長い木板にろうそくを1本立て、その灯が父の寝ている隣室にもれないように、ほとんど上布団を被せんばかりにして本を読むことである。なんのことはない、単なる原始的な方法ではありました。

こうして読んだあの頃の本は忘れるものではない。なかでも、木板に1本のろうそくという原始的な方法を使ってまでわたしを読書へと駆り立てた一冊の本、それは、レマルクの「西部戦線異状なし」である。

『僕の心はすっかり落ち着いた。幾月、幾年と勝手に過ぎていくがいい。月も年も、この僕には何ももってきてはくれない。何物も持ってくることはできないのだ。僕はまったく孤独だ。』

この記を最後に1918年、志願兵パウル・ボイメルは17年の生涯を戦場で終える。

わたしは薄明かりの布団のなかで、この本の、感動して止まない文章を何箇所となく涙をぬぐい鼻をすすりながらノートしたのであった。

わたしが若い頃から強度のド近眼にかかったのは、この頃が原因だとわたしは思っている。しかし、それと引き換えに得たものは、「人は本を通してでも、大きく生き方を学び、疑似体験できる」ということだ。

頑固だった父が亡くなって、今年は30年目に入ろうとしている。
わたしの蛍雪時代の上にも幾星霜が重なった。

 

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