他人を意識しすぎる問題

私は結構、他人を意識しすぎる方だと思う。

それは恐らく、良くないことだと思ったんです。

私には今やりたいことがある。自分で考え、そう思った。

ハズだった。

しかし私は存外他人の目を気にしているのかなんなのか、本当の自分の気持ちってなんだ、みたいな思春期みたいな沼に陥っている。何か物事がうまく進まない原因は、他人を意識しすぎること、その習慣にあるのではないか。そう思い、以下の文章を徒然に書き綴りました。



目次

①他人の目って気にしちゃ駄目なの?

②なぜ自分は気にしてしまうのか

③では他人の目を気にしないようにするために



①他人の目って気にしちゃ駄目なの?


他人を意識した出来事

先生がA,B,Cくんは将来成功するタイプ(except 私)と言っていた。はぁふざけんなと思って、何か作ってやると思った。ものづくりは普通、自分の興味やつくるのが好き!というところから来るもんだと思う。他人の一声で感情、行動が動いた。先生の目をとても気にしてしまった。

それを駄目だと思った理由

-a-

目的のための行動ではなく、行動のための目的設定(行動が目的になっている)になっている。

↓自分の場合↓

何か問題解決をしたいと思った時に、本質的でない目的やふわっとした目的意識を設定しがち。

また、そういう時は大抵問題解決よりも問題解決に向かっていることに満足しがちなため、プロジェクトが具体的にズンズン進んでいかない。

-b-

自分が考えて発言したことのはずなのに「コピペ感のある言葉」「自分の言葉じゃない感じ」(←実際に言われた言葉)になってしまう。


②なぜ自分は気にしてしまうのか

一言で言うと、「承認欲求」が強い、んだと思う。


③他人の目を気にしないようにする対策考えた(?)

-a-

自分の感情や欲求で動けるようになる為に、他人に認められたいッて思うのをやめる。

認められたい、と思って活動を始めるのは間違いではないと思う。

なぜならそれがきっかけとなり、段々自分の気持ちになっていくこともあると思うから。

(例:スラダンの桜木花道)

しかしきっかけとするのはいいと思うが、原動力をそこに求めすぎるのは良くない。

なぜなら、上記で述べた「ダメな理由」があるからだ。


……と考えていたが、


いまふと、本当の本当に認められたいと思ったら頑張って成果出すよな、と思った。


「つまり、私の承認欲求は中途半端なんだ。」

そう思いついて思い出したが、私という人間は結構チョロい。

その言葉がウソかホントかは知らずとも、褒められたらとりあえず嬉しい。

褒められたら誰でも嬉しいと思うが渡しの場合は筋金入りで

自分でしょぼいと思ってた内容だったとしても、

先生等に褒められたら、やっぱこれでいいかも、とか思う。ほぼヒャクパー。

つまり、本当にその人の感情が動いたかではなく

いいね、という「承認」が貰えれば認められたことになるのだ。

私というお役所は。まあ随分お手軽なシステムだ。


「本当の本当に認められたいと思うには(ガチの承認欲求)」についてこれから考えても良いけど、これはそんなに本質的ではないし、そもそも考えたところで、先生にガチで認められたくなるようには全く思えない。コレに関しては、人とのコミュニケーションによって形成されると思う。


となると

行動の原動力として「きっかけ」と「モチベーション」がある(と考えた)が、「承認欲求をきっかけに始まった行動を、いかに自己欲求(?)に導くか」が、自分に今できる改善策なんだと思う。


-b-

また並行で考えるべき課題として、「『認められたい』って感情が消えない」というのがある。

ならば、感情が消えないことを前提に考えてもいいのかもしれない。


「プレゼンで緊張しない方法はない、緊張といかに向き合うかが大事」と言われたのを思い出す。

さきほどの-a-では、承認欲求を完全に消し去ること(感情の移行)を考えていた。しかし、人間はデジタルではない、というかいられない。0か100かなんて解答は柔軟性がないし、そもそもそんなのは無理だ。


何割かの承認欲求と、ゼロではない自己欲求。

コーディングが楽しくてたまらないエンジニアのような、自分の内から自然と湧き上がってくる感情は、俺にとってどういうものがあるんだろうか。そしてそれは、いま自分がやりたいことと繋がるのだろうか。現時点の自分のやりたいことは、自己完結することではないもので「こういう仕事がしたい」というのがある。「したい」に至った結論は、感情ではなく9割がた論理である。

このままじゃ社会は駄目になるじゃん、と思った。でも論理的に組み立てられたそれは自分の言葉じゃないんだろうか。そうじゃない気がしていたが、いざ人に話してみるとなんとも。

薄っぺらいのだろうか。

考えた。

論理的な資料だけでは原体験が足りないのだろうか。

資源がなくなる未来について考えているが、

何かを体験して「やっぱ資源やべえわ!!」ってならなきゃいけないのだろうか。

そんなはずはない、気がするんだけど。


そしてここまでの思考の末に辿り着いた。

わりと暴論。明日には変わってるかも。

でも一応かいておく。


薄っぺらいかもしれない自己欲求である程度の承認欲求がどうのこうのと色々、眠る時間を削ってまで書いた。細かいことを考えすぎていた。細かいこと考えてないで「結果を出そう」。自己完結しないものであるからには、やり続ければ他人の前に出てPDCAがまわる。


他人の目を気にするせいでろくな結果に導かれず終わる、なんて書き始めは思っていたが、改めて考えるとナニイッテンダコイツ。無駄なこと言ってないでなんでもいいから、成果物を重ねていけばいいんだわ。この、自分にすら無意識の内に言い訳を立ててしまう。

なんか急速にわかってきた気がする。ほかのひとのことは知らないが私にとっての「他人の目を気にする」というのは、「結果を出すことに対して、悪いものができるかもしれないと怯えている状態のこと」だった。(自分を力不足と思ってか思ってないか、はともかく)ここまで書いてそう思えてきた。結果は悪くなるかもしれないが、やらにゃあ永遠に結果は出て来ない。この状態の自分に対して私が考える対策は以下のひとつしかない。







さっさとやれ。






某Facebook CEO
Done is better than perfect.



編集後記:

結局、いろいろ理屈をこね回して、やらない理由を作っていたんですね、私は。自分の不甲斐なさを知ることからはじめよう、とかいって描き始めたこの文章も結局は逃避だったのかもしれない。でも、ある問題に対して浮かび上がってた様々な課題が、実はもっと上位の問題で、しかもその課題はたった一つに絞られる、という結論は個人的にすごい良かった。どうせ腑に落ちる答えは得られないだろうと思って描き始めた所、意外に一先ずの落ち着きを見せた。皆さんも問題を抱えていたら、一度一気に書き進めてみることをオススメする。

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