初めての大阪
自分は神戸で生まれましたが、25歳になる前まで親元で、ぬくぬく育っていました。
とはいっても、家庭は裕福ではありませんでした。小学生の頃は教室の中だけでも、靴を履いて登校している生徒は数人でした。靴といってもゴム靴ですが、数人の中に僕もいました。
小学生の頃はそんな環境で、裕福だったのかもしれません。父親は農家の方々を相手に肥料や農薬を販売する仕事を、近所の方と手を組んで商っていました。
そんなある日、警察の人がやってこられ、父親の扱っている農薬が、まがい物であるという事でした。
募集した商品を調べたが仕入れ先も効能もまともな物ばかりという事でした事でした。
では、そのような話がどこから出たのか・・・よりにもよって信頼しきっていた農協の、責任者からでした。
自分は父親に、反対に訴えたらといいましたが、父親は
「いったん出回った噂や信用は、そう簡単にかえってくるものではない。それよりも向う(相手)にもお前と同じような子供がいる、父さんが訴えれば、お前のような辛い想いを抱える子供が一人増えるだけだ、だからお前が辛抱しろ、向うの子供には罪がない」そういって自分の頭を撫ぜてきました。
「親父ってバカだなー」その時はそう思いましたが、そんな事があってから、だんだんとうわさが広まったのか、売れなくなった肥料や農薬の支払いに追われていました。そして店を閉めてしまいました
未収金のものがあったので集金に行くと、店を閉店したんだからという言い訳で支払ってくれないところも出てきました。
訴えなかったことが裏目に出て「農協が正しかった」という噂も農協から出ていたようです。
父親はだんだん体を崩し、入院し仕事をし、また入院し、49歳で亡くなってしまいました。
自分は絶対に挽回してやると「生き馬の目を抜く商魂の街大阪」で自分を鍛えようと25歳の頃大阪に出てきました。
確かに大変でした。1本のタバコを2つに切って吸っていたころもありましたが、何とか月に100万円は
貯金できるところまで成長できました。でも長続きせず10年ぐらいで転職を余儀なくされました。
小銭は持っていましたので、気前よく事務所も構え私を入れて12という人数でスタートしましたが
これが大きな計算違いで2000万3000万円が数か月で消えました。
その後も何とかしなければと、頑張りましたが、一向にうだつが上がりません。
借金がかさみ、毎日のように催促の電話の応酬・・・いろいろ苦労し、やっと支払いも終わり
これで来月から人間らしい生活を味わえると思っていました。苦労を掛けた妻や子供にも、少思いをさせてあげられると思いましたが、何が因果か借金を払った残りのお金程度の収入しかありません。
来月こそは・・それも意気込みだけで自転車操業そのものでした。
年が越せない・・こんな思いが4年ほど続き、離婚。
ロープの世話になって楽になろうと、泣き無しのお金でロープを買いました。
一人ポツンとロープを眺めていましたが
どうしても納得のいかない疑問がありました、それは
多額の借金を毎月払えていたのに、支払いが終わったとたんに、支払えていたはずの金額が
売り上げから、完全に消えてしまった。
残りのわずか20万円前後で今まで生活をしてきたのに借金を完済した後も20万円前後
なぜ?
・・・・・・・・・
そうか交通事故で死んだ弟か父親が、頑張っている自分の姿を見て「これだけは払わせてやろう」
と思って協力してくれていたんだ、そう思えばすべてが納得がいく。
後は自分力で道を拓けという事なんだ、そんな事にも気が付かずロープで楽になろうなんて
恩を仇で返すようなもの。「しっかりしろよ」自分に言い聞かせて
あれから何年・・・・・いまだに、うだつも上がらず、
死ぬまでこのままではイヤだ・・・そんな時に黒田さんのことをネットで知りました。
でもネットの事はよくわかりません。以前に申し込みましたが、違う方から担当ですという
メールが来ましたが、肝心の黒田さんからと違いクルテルワンさんからでした。
黒田さんとはグループでやっていますと言われ、何度かやり取りさせていただきましたが
自分の時間が取れず今現在止まっています。
24時間以内に返事がないと打ち切りますという事なので、Skypeもつながらなくなっています。
黒田さんとの連絡などは、こちらでよろしかったのでしょうか。
最後に長文お許しください
著者の西馬 徹夫さんに人生相談を申込む
著者の西馬 徹夫さんにメッセージを送る
著者の方だけが読めます