さみしさについて思うこと

さみしさ、という言葉が好きだ。
さみしさ。さびしさ。寂しさ。淋しさ。表記によって少しずつ与える印象が違う。わたしの好みはひらがな表記の2つだが、どの表記も味がある。使い分けることが楽しくなる言葉だ。
といいながら、自分自身はあまりさみしい思いをしたことがない。さみしい、と言う人の気持ちは正直よくわからなかった。今でも、たぶんあまりよくわかっていない。

さみしさ、とは自分が愛情から遠ざかっていると思うときに感じるものではないか、とわたしはわからないなりに考えている。
普通に考えると、さみしさを埋めるためには、愛情を与えてもらえればよい。だからパートナーを作り、距離を縮め、いつでも側にいてもらい、たくさんの愛の証拠をもらい、ときには拘束し…。
たくさんの努力。麗しい努力。わたしが見てて不思議に思うのは、それで「さみしさ」が減っているように見えないことだ。その場に相手がいればいいが、いないと常にさみしさに襲われる。いや、相手がいたとしても、さみしさが消えないときがある。それは一体何なのか。
たぶん逆なのだ。人が愛情を与えてくれるかどうかではなく、自分が愛情とともにあると自分が信じられるかどうか。自分を信じられるかが、さみしさの量を決める。自分を信じてあげられない限り、さみしさは消えない。
泥沼である。自分が愛されている確信をもてないからこその、さみしさ。しかし、さみしさの解消を他人に求めている限り、さみしさは消えないというのでは。
以上、推測である。わたしには実感のわかない話。とはいえ、まあまあいい線いっているのではないかとは思うのだが。

わたしはさみしくない。と考えるときに、与えてもらった愛情の大きさを感じる。人生の初期における愛情の重要さ、の実感。とても素晴らしく、ありがたいことだ。
それでも、さみしさという言葉にひかれる。さみしさに対し、何かをしたいと思う。公私ともに。それがいいことなのかもよくわからないけれど。
わたしも、人に言わせれば、さみしがりや、らしい。

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