【第1話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。
ひとりで生きていくという本当の意味を、理解するのは難しい。
それは、誰もがひとりでは生きていけないと思っているからであり、誰もがひとりで生きているのだと、信じているからに違いない。
僕が父子家庭になったのは、平成17年冬のことだった。
父子家庭という生き方が世の中に認知されるずっとずっと前のことで、それは思いがけずある日突然に訪れた。
その年のクリスマスにサンタさんがやってこなかったのは、子供たちが悪い子だったわけではない。
父親の僕にお金がなかったからだ。
上の子はクラスメイトに年賀状を書きたいと言っていたけど、年賀状を数枚買うのが精一杯だった。
所持金は2万円。
所持金ではない、それが我が家の全財産だった。
ディズニーランドのお土産のクッキーの空き缶に貯めていた、小銭を精一杯かき集めた2万円が我が家の全財産。
「サンタさんが来ないのは君たちのせいじゃない」と、子供たちに伝えるのは悲しかった。
誰が悪いかは別にして、決して子供たちに責任があるわけではない。
子供たちはわかったようなわからないような顔をしていたけど、サンタさんも母親もいなくなってしまったという現実が、変わることは無い。これっきり母親がいないくなる子供たちをかかえ、今年のサンタだけではなく、永久にこの子達にはサンタがやって来ないのではないかと思っていた。
これからどうやって生きていこうか。
上の子が小学校2年生で、下の子はまだ幼稚園生だった。子供は男の子2人で、母親がいなくなったためにこれからは3人暮らしになる。
まさか自分が父子家庭となって、子供2人を育てるという人生を思い描いたことはただの一度もない。
父子家庭として生きることになった人生は、まさに寝耳に水であり青天の霹靂と言わざるを得ない。人生何が起こるか分からないとよく言うけれど、あれはどうやら本当だ。
でもまあ、何とかなるだろう。
こうなってしまったからには仕方がない、どうにかするしかない。
軽い気持ちで考えていたわけではないけど、軽い気持ちでいなければ不安ばかりが募ってしまう。
悪いことばかり考えていても、仕方がない。
「子供たちの面倒はみられない」と子供たちの母親には言われたし、調停では「男一人で子供を育てるのは無理だ」と説得された。母性優先の原則、母親が子供を引き取ることが子供の利益であると、そんなことを言われたけど、子供たちを引き取らないというのだから仕方がない。
子供たちの親権で争うことは無かった。
今となっては、離婚調停で何を話し合ったのかさえ記憶にとどめてはいないけど、子供たちを引き取って育てていかなければならないという未来だけは、誰に説得されても変わることは無い。
男が子供を育てるということが、そもそも無理なのだという。そんなこと、考えたことも無い。考えたことは無かったけど、多分何とかなるだろう。
もうやるしかないのだから四の五の言わずなんとかせねばなるまい。
たった一人で子供たちを育てるということ、ひとりで生きていくという本当の意味を、僕は知らなかった。
知らなかったからこそ、10年という時間を子供たちと一緒に生きてこれたのだと、今となってはそう考えることも出来るのだが、10年という時間は途方もない。
紆余曲折のてんやわんやで、決して楽しいことばかりではなかったけど、世の中のほとんどの人が経験したことがないであろう、たったひとり、男手ひとつで子供2人を育てるという「父子家庭」という生き方の思い出を、今から書き記してみたいと思っている。
忘れてしまう前に、僕が経験した父子家庭としての10年を伝えなくてはならないし、どうしても伝えなくてはならない理由がある。
良いとか悪いとか、凄いとか凄くないとか、偉いとか偉くないとかではなく、父子家庭としての偽らざる記録を子供たちに伝えると同時に、10年間父子家庭として過ごしたこの生き方を、世に問いたいのだ。
父子家庭になって初めて抱いた感情は、不安や迷い、怒りや悲しみ、安堵や解放、ましてや希望や喜びなどではない。
「恐怖」だった。
はるか10年前の出来事を、出来る限り記憶の糸を手繰り寄せながら書いてみることにする。
忘れてしまったことのほうがはるかに多いであろう記憶の中で、この感情だけは今でもはっきりと覚えている。親におねだりをして、駄々をこねてようやく買ってもらったおもちゃの記憶のように、忘れることのできないこの感情は、父子家庭になって一番最初の記憶だ。
子供たちの母親と、離婚をするという法的な段取りが成立するのはまだ先のことで、父子家庭生活の始まりは「もう家には帰りません、子供たちの面倒もみられません」と言われた時からのことだ。たいていのことは何とかなると楽観的に考えられることが唯一の長所といってもよいこの僕が、心の底から「怖い」と思った。
突如としてわが身に降ってわいたこの運命に、心の底から恐怖したのだった。
僕には両親がいない。
いや、正確に言えばこのときは、まだいた。
両親が亡くなったのは、平成18年の秋。2人とも立て続けに亡くなってしまった。
かなり年を取ってからの子である僕は、この当時で父親は80歳を超えていた。
幼いころから酒を飲んだくれては暴れまわっていた父と、その父を罵倒する母。そんな両親のせいで自分の人生を棒に振ってなるものかと、必死に勉強する兄。その間で居場所を探しあぐねる僕。
簡単に言ってしまえば、そんな環境で育った。
小学2年生のころに定年を迎えた父は、それからというもの人が変わったように酒におぼれ、逃げるように高校を卒業して家を出るまでの10年間、父が素面だった記憶はない。
僕に何かあったからと言って実家に帰って親の世話になるわけにはいかなかったし、その時はすでに父と母は病に倒れ、2人とも長いこと入院を続けていた。
さて、どうするか・・・
明日どうすればよいのかがまったくわからない。それどころか、今何をすべきなのかさえ分からない。
わずか1日先の未来でさえ、上手に思い描くことができなかった。
自分たちが直面した現実をまだ知らない子供たちは、いつも通り大好きなプラレールで無邪気に遊んでいて、窓には冬空で乾かない洗濯物が干してあり、子供たちが大好きなアニメがテレビから流れている。
ストーブをつけていたために湿気で曇ったドアガラスと、いつまでたっても片付かないリビング。
毎日何も変わることのないこの光景を、ぼんやりと、ただただぼんやりと眺めていた。
うまく考えをまとめることが出来ない。
変わってしまったのはかつて夫婦であったお互いの感情と、もう子供たちには母親がいなくなってしまったという事実だけで、それはまるでこの世で自分だけ時間が止まってしまったかのような、どこか奇妙な景色だった。
周りにあるすべてが動き続け、僕だけが止まっている。
一人前になるまで子供たちを育てなければいけないという責任に対して抱いた恐怖という感情と、いつもと変わらず無邪気に遊ぶ子供たちがいるその日の夜のリビングの景色は、僕の記憶から消えることは無い。
これが大きく方向転換を余儀なくされてしまった新たな人生の、もっとも古い記憶だ。