広汎性発達障害と言うものも知ってから変わったこと
最初は、本と些細な事だった。
本を読んでいる時。周りの世界から完全に隔絶された静寂の世界の中で、その物語や記述に没頭している。呼びかけられてもまったく気づかない。
最初は耳のせいかなと思っていた。
しかし、他の人はそこまで集中しての没入感に浸ることは無いんだそうだ。
やっぱり耳が聞こえにくいのが原因なんだろう・・・と思っていた。
朝の目覚ましなんかも聞こえないのだから。
成長するに従い、人との係わり合いが大切になっていく中で、
よりコミュニケーションが大切に成ってくる。
人の話しが耳に入らない
つまり、会話が成り立たない時が出てくる。
聞こえているのだけど、聞き取れていない。
ここは、中度難聴特有の聞き間違い、空耳シリーズの事を漠然と体感として持っていたので、
これも耳のせいだと思っていた。
会話というのは、相手の話しをきちんと聞く事から、適切な受け答えが出来るようになる。
あたりまえの話しです。
しかし、耳が聞こえないという条件が加わると、何度も何度も聞き返すのが躊躇われる環境では、
聞き取れなくても仕方ないと考えるようになっていく。
しかし、健聴者にとっては聞こえるのがたりまえ。聞き取れてあたりまえ。
聞こえないのは、聞く気がないからだ。という思いが強くなってくる。
その結果、「こいつは人の話しをきかないやつだ」という認識になってしまう。
そうなってくるのは肌身に感じてわかるものですから、
これが一種の障害のようなものだと知らなければ、当然「自分が悪いんだ、努力しなければならない」という強迫観念を抱くのは当然の帰結ではないでしょうか。
そして、聞こうとしても集中が途切れる。
より集中して、一言も聞き漏らさないように聞こうとして傾聴を前面にだすと姿勢が前傾するので怖い、キモいといわれる。
耳に手をかざすとバカにしているのかと罵られる。
ならば耳だけでも相手のほうへとすると、目を見て話さないのは失礼だと怒られる。
そんな人生を26年程過ごしてい来た時、
ふとしたきっかけで補聴器を入手する事になった。
耳穴式の補聴器。
片耳1個で44万円也。
補聴器には、いくつか種類がって、ポケットや手に持てる外部ユニット式のもの、MP3ウォークマンやラジオみたいなやつと、
耳にかける耳掛け式と、
この耳の穴の中にほぼ全体を入れる耳穴式があります。
そしてお値段の方も、難聴の程度によって全然変わってきます。
通販で買える3万円前後のポケット型のやつは低度難聴者用で、中度対応になってくるとパワーも必要になってくるし、保護機能やら、バランス調整やらで倍々になっていきます。
そして、基本的に1基で片耳前提なので、両耳に装着しようと思えば出力大き目のものにせざるを得ないので、補聴器メーカーのものに限られてきてしまう。
今持っているポケット式のやつでも7万以上、耳掛け式でも13万以上とか普通で、
この耳穴式は耳穴にあわせたフルオーダーになるのでこのお値段になるというのと、
あの頃は他に選ぶ選択肢も、情報も無かったというのが大きいかと思います。
耳穴式でも、下は15・6万からあるような世の中にはなりました。
あと、耳穴式の補聴器の寿命は、4・5年といわれています。
両耳で新車のミライースが買えてしまいますね(笑)
そして中古車みたいに残価はなしで廃車になって、確実に買い替えていかなければならない代物。
でも、補助金は無いのが中度難聴。
さて、中程度の難聴と診断されたのはその頃。
障害者手帳がもらえないのもその頃に知りました。
それでも補聴器にサポートされてする生活は、耳が気持ち悪いながらも聞こえる世界に片耳つっこんだことで、人の話しが聞こえないというハンデから解放されると思っていました。
しかし、補聴器は音量のサポートはしてくれても、聞き取り能力のサポートをしてくれるわけではなく、今まで静寂の世界に生きてきた身にとっては、世の中は不快な雑音にまみれている。
その結果、つけていれば聞こえるけど会話に集中できない、外せば集中はできるけど聞こえないという命題にぶちあたります。
結局つけない選択をしました。
片耳だけだと平衡感覚が狂うのも大きかったです。
ただ、この経験は大きな気づきを与えてくれました。
私が人の話しを聞き取れないのは、
耳のせいだけではないのではないか?
という気づきを。
以前から世の中では、アダルトチルドレンだとか注意欠陥障害だとかいう話題を見聞きしていた中で、そのキーワードが気になっていました。
28歳を越えた頃、とある会社で電算室勤務をしていました。
会話はほとんど必要なく、わりと自由な雰囲気の職場ですが、
受発注の入力業務に、恐ろしく骨董品級のコンピューターを使用していて、
その発注管理の入力は商品コードのみで行われていました。全て紙出力、手入力です。
エクセル使えるWindows95でもあれば1人のみで事足りるのに、ありがたいことにその古いシステムのお陰で雇用需要が生まれていました(笑)おまけにバックアップデータは普通のカセットテープでしたね。毎日そのバックアップだけで1時間半とかいう素晴らしい環境でした。
そこで問題だったのは、入力間違いが非常に多かった事です。
もちろん気づいてからは三度くらい見直しをしてデータ確定・送信をしています。
しかし、最終チェック時には入力間違いが無くならない。
その頃の数年、WEB用にCGIの導入とかでプログラム弄ったりした時にも出ていた、
前に見たときにはきちんと合っていたはずの、少なくとも自分の目には同じものに映っていたと認識していた部分が、まったく別のモノであり、そのために整合性が取れていないなんて事がたびたびありましたが、今度は職場の業務でそれです。
私の目には、何度チェックしても同じに見えていたもの。
確認を三度して間違いのない箇所。自信を持って確認もしましたと言える部分ですらも、過誤が指摘される。
はじめはチャットのし過ぎで誤字を気にしなくなったからだろうかとも考えました。
キータイプが似非ブラインドになってから、テンキーを間違って押す変な癖でもついたのではないかとも考えました。
掲示板で討論する時の誤字は著しく少ないので、テンキーのみの問題なのか?とも。
自分が注意してても注意できていない。
これって注意欠陥障害とかいうやつなのか?と。
しかしそんな診察や診断をしてくれる病院ってどこなんだ?
わからない、情報もない。
そんな時代でした。
その後、その職場をクビになり(笑)
訪問介護の資格を取り、仕事に従事し、起業独立し、廃業と経て、
気付が人生も33年を過ぎた頃。
子供の関係から広汎性発達障害というものを知る事になりました。
そういうものがあるんだという事を。
広汎性発達障害の主な症状を目にするにつけ、
今まで耳のせいだとばかり思っていた様々な困難事例が、
もしかしたら、耳よりも広汎性発達障害の方が大きいのではないか?と思えるようになりました。
前述の注意欠陥障害もこのうちに含まれると考えられる症状です。集中力が維持できないらしい。
本や自分の世界に没入しすぎて、呼びかけられても反応できないのとかもソレです。
そして、異様に記憶力が良い人が多いらしい。
30分番組の全セリフを翌日演技つきで諳んじられるとか。
3歳以前の記憶が少なからずあるだとか。
RPGなんかのマップを、1度やっただけで5・6年経っても忘れてないだとか。
人が言った言葉をいつまでも忘れないで覚えているだとか、
特に意識したわけでもないものを全てといえるくらい鮮明に覚えているというのは、
十分異様と言っても良いのではないだろうかと思いました。
昨日の晩御飯のメニューすら忘れる事がある最近からしたら、随分な能力だったんだなと思いますが(笑)
自分がこうして無能でバカになっていくのは、さながらアルジャーノンに花束のアルジャーノンの如く感じます。いっそボケるなりして何も解らなくなってしまえば幸せなのに・・・と最近思います。
また余談に脱線してしましましたが、
広汎性発達障害というものを知った事で、知識として自分にその可能性があるのだと認識する事が出来ました。
結果としては、その診断は受けませんでした。傾向は強くあるとは言われましたが。
大人の発達障害は、それだけわかりにくくなるんだそうです。
その人がこれまでの人生で経験を積んで、知識として身につけた一般社会生活という技能が、その診断を難しくさせるらしいです。
広汎性発達障害は、別に知的障害というわけではないので、
一般的にはIQは普通の人と変わりません。
ですから、人生で経験を積んで、苦手分野を努力して克服している人も大勢居ることでしょう。
私のように、結果的によく似た症状を持つ感音性中度難聴とのあわせ技だと、どっちが原因で人の話が聞き取れないのか、切り分けるのは難しいと思います。
耳でフィルタリングされて聞き取れず、運よく聴覚神経を通過できた信号も、脳の処理で事業仕分けされてしまえば、意識の俎上に上る事すら難しいと思えます。
会話で人の話しを理解出来ない?との評価をした人とも、
文章でのやり取りで困った事は特に無いですし。
自分が優秀ではないにしても、理解力が無い真性の馬鹿というわけでもないだろうと認識するに留めて、現在のところはどうにか自我崩壊を食い止めて生きているところです。
一番変わったことは、
自分が苦手な分野を知る事で、
その物事に対してどのような対処が有効で、
どのように対応していくことが可能であるのか、また環境整備をしていく事が出来るのかを知る事ができた事。
そして、そうした自分の特徴、偽善に満ちた良い言葉で言えば「個性」を、
どのようにして相手に伝え、理解してもらうかを考え、それを実施していく事ができるようになった事です。
私達が幼い頃、正義感にまみれ、正論を常とし、小さな悪も許せないのは、
こうした脳の機能による執着のメカニズムのせいです。
世の中には正しい事であっても道理が通らない矛盾があるのだと理解するまでは、
その正論と正義を振りかざし、悪を討ちすえ、人々の反感を買い、
正しい事をしているのになぜいじめられるのか、迫害されるのかを理解するには、
精神が幼すぎたのだろうと思います。
中学生になって、現実が理想たりえない中、見えない幻想や巨悪、社会を敵として戦うようになるのは、中二病の典型的症例でしょうが、私達には類まれなる没入間と独特の世界観を脳内に構成する想像力があります。よって重度の中二病に冒される者も少なくないのではないかと思います。
これらは、やがて社会経験を積む過程で、一般社会や現実での対処法を身につけていくことで、
隠れヲタク化したり、アンダグラウンドな世界にはまり込んでいったり、
はたまた、自身の没入能力と興味の対象に対して異様に発揮される記憶能力や分析能力を、
学術方面に特化開花されて高学歴や研究者への道を開くものもいるでしょう。
私達がたびたび言われてきた「ものの見方」「良い面もあれば悪い面もある」とか、
たぶん言った人らは受け売りでよく解ってないんだろうけど、
結果として、私達が自分を律し、自分を制御し、自分の選択肢を与えられた選択肢以外に生み出す道に進ませてくれるのは、この言葉なのだろうと思います。
例にすると、ある問題に対して答えが2つ用意された時に、
より良い解決策として普通ではない、第三、第四の選択肢を考え、生み出す事が出来るようになる事です。
普通の第三第四の選択肢は常人に任せましょう。
私達は、その時代のイレユラーな存在。マイノリティなのだから。
ただ、時代が動く時や時代が変わる変革の時代には、そうした存在が必要となることもある。
私達は決して、主流派ではないけれども、だからといって死すべき存在ではない。
そういうことを、今いじめに苦しんで、死を選ぼうとしている人たちに伝えたいと思う。
私達はともすれば自分が必要ではない人間だとか、自分は死すべき欠陥人間なんだとか、
理由なんかどうでもいいから死なせて欲しいと願わずに入られない境遇に置かれやすい。
そして、強迫観念には人一倍とらわれやすく、一度確立した自己のイメージ世界から抜け出す事は困難で、人一倍他人に理解されたいくせに、軽薄な言葉はすぐに見破ってしまうので他人を信用できない。
だからこそ、唯一信じられる自分と同じ世界に生きてきた人からの言葉なら信じられる。
不信感たっぷりでも耳を傾ける。この人の言葉なら信用してみようかなと思う。
この世界から救ってくれるなら誰でもいいと思う。
私は、誰かが自殺で死ぬくらいなら、一度でいいから会って話をしてみたいと思う。
貴方の話を聞かせてほしい。そして私の話しも聞いて欲しい。
私達は、無理解な世に絶望しながら悲観して死んでいくべきではない。
広汎性発達障害の傾向と感音性中度難聴が私に与えている苦難は、
このまま自分だけのものにしておくには、世の中は悲しすぎる。
そう思って、とりとめも無い文章ですが書かせていただきました。
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