声優、上京、挫折、起業、廃業、そして今・・・

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母が有償ボランティアでやっていた頃はなかった様々な設立に関する規制。
結局、非介護保険サービスとしてやるしかなく、
人手もたりず、8ヶ月程でそのサービスは継続を諦め、
訪問介護事業所としてヘルパー派遣業をすることに。
ケアプラン作成などの介護支援事業の方は、
元職場ほか、付き合いのあった会社にお願いしました。

ヘルパー派遣の方は本当に好評で、
ヘルパー指名で外注されるくらいでした。
加えて有償サービスも行っていたので、そちらへの需要も高く。
都合6期運営しましたが、前年度比200%位で売上が伸びました。

好調なのに廃業するハメに

廃業する事になった年も、決算では1200万程の利益が上がってて、
次年度はもっと伸びる予定でした。
しかし不幸は重なるものですね。

母に肺がんが発覚しました。
STAGE4 末期の肺腺癌です。余命半年。
「・・・え?」
更に、高齢化の進むヘルパー層を支える次世代幹部育成を進めていました。
私と同世代ばかりです。
しかしこちらにも不幸が・・・。
旦那さんが重大な内臓疾患で看病に専念しなければならなくなったり、
癌が発覚したり、
祖母の高齢者福祉施設入りを承認するかわりにアナタはウチで働いてくださいという引き抜きなど・・・。
旦那の転勤で他県へ引っ越していかなければならなくなったり。
都合5名が僅か1ヶ月の間に、
母の肺がん発覚から2ヶ月の間に起きました。
元々20人前後の小さな事業所です。
しかも若い世代中心にした離職です。
2年ほど求人を出していましたが、新規で来てくれたのは2名だけという深刻な担い手不足です。
時給は1500円です。もちろん交通費別途支給です。
通所施設とか850円とかですよ。同業他社の時給は1200円とかの時代ですよ。
有償サービスは2000円で請け負ってました。
それでも応募が無いくらいの厳しい状況の中、
仕事は有るけど動けるヘルパーさんがいない。
いつまでも他の会社にヘルパーさん出してもらい続けるわけにも行かない。

決算を区切りに会社を閉めるしかない・・・。
惜しまれて止めるのは、まだ幸せな事なのかもしれない。

母の死

母が抗癌剤治療を諦めた。
余命半年から1年が過ぎていた。
効果がなくなってきた、しんどいということで正月にそんな話しをしていた。
妹が群馬に嫁いでいて、正月帰省していたので、
最後に終末治療を国立高崎病院で受けないか?ということで正月早々群馬へと旅立って行った。
8月の末に肺炎を起こしてから酸素吸入器が必要になり、
10月には祖母の遺産問題で弁護士の処理やらで色々忙しくなったりするなか、
11月に危篤の知らせを受け、取るものとりあえず群馬へ急行。
なんとか持ち直したものの、吸入器二台必要になったり、
それでも退院して自宅療養にしてもらったりと色々な二ヶ月。
妹の誕生日、12月22日に緊急入院となり、
正月に痛みが出てきた為、麻酔による昏睡化。
そのまま1月13日に息を引き取るまでの2週間は現実を受け入れるのが大変でした。

母も私も、家族もみんな、介護を通じて人の死というものを見てきたつもりです。
やがてくる死と向き合う為に、どのように心積もりをし、どのような準備をし、
どのようにすれば心穏やかに逝けるのかを知っているつもりでした。

自宅療養になる前と、緊急入院の後の母の言葉の数々は、
そんなものでは割り切れない切実なモノだったと今でも感じます。
最後に会話をした元旦の夕方、帰り際に母は何を伝えたかったのだろうか。
言いかけた言葉をさえぎって、また明日も来るからと。
介護で培った経験がそうさせた帰宅の方法が発動する。
しかし、母に明日はなかった・・・。

地域おこし協力隊との出会い

母が亡くなっても、生きている者は生活をしていかなければならない。
会社を閉めた今、正社員経験もない元経営者に働き口なんてそうそうない。
結局追い詰められて短い期間とはいえ生活保護のお世話になってしまった。
「社会から受けた恩は、社会へ返す」
そう考えるようになったのは、このときの事だと思う。
それでも仕事が見つからなければお世話になり続けるハメになるのであって、
恩返しどころではない。
ハローワークに通いながら、WEBでも仕事を探していて偶々生き抜きで見ていたマトメサイトで地域おこし協力隊を知る。
北海道虻田郡喜茂別町が10名募集するという。
地域おこし協力隊とはなんぞや?という興味から調べだす。
総務省が管轄する事業で、なんだかよくわからないけれど、地域おこしをする仕事みたいだ。
そして他の地域も募集していないかを探していると、
岐阜県高山市とか岡山県美作市などで募集しているのを見つけた。
美作市には、湯郷温泉というのがあって、
母との最後の思い出作りで湯治に行った御縁がありました。
母が「こういうところで生活できたらいいのにねぇ」とか言ってたのを思い出す。
「1人募集だけど、採用になったら精一杯頑張ってみよう!」
ということで応募締め切りギリギリまで書類を精査して応募。

なんだか不思議な御縁に恵まれて採用になった。

美作市地域おこし協力隊

なんだかわからないけど、ノープランで行くわけにも行くまい!
私とて、一度は事業主をやってた身なのだから、
事業プランの一つも提示せずに行くなどありえないだろう!
ということで、色々考えつつ、また同時に自分の後ろ盾になるような人の繋がりを、
グループを作っていこうと考えていました。
ネットゲームでのギルド運営は10年以上の経験があり、
たかがゲームなのに会社組織か!?と批判もされ、晒されもされるほどの運営実績と、
対人戦績は詰んできましたが、所詮は仮想世界での仮想の繋がり。
ゲームが終われば知らない人、何も残らない。
それでは悲しすぎるだろう!ということで、
「仮想を現実に繋げる!」
これが目標でした。
その為にはてなブックとAmebaに記事を書き始め、
その頃話題になってきていたTwitterとFacebookも登録してみた。
そして美作市で採用が決まった。

1人採用といっていたけど3人採用になったから。と担当者が言う。
44歳のおじさんと、20歳の若者なんだけどーと。
40代のバブル組・・・。
使えないオッサンだったら自分がシッカリしないとダメだろうなと覚悟を決めての初顔合わせ。

そこには思いもかけないカリスマ人がいた。
私がこれから10年かけて作ろうと思っていた組織と、仮想世界で私が振舞っていたのと同じような仕草や、冷静だけど熱い語り口。
ダメなおっさんじゃない!すごくイケてるオッサンがそこにいた!
その時私は、自分のプランを捨てた。

「この人とやって行こう!」と。

それがあかんかってん。

結論から言うと、それが良かったけど、それがダメだった。

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