映画スポットライト世紀のスクープから考えたこと

後編: 10年振りの天国からのメッセージ

私にとって永遠のテーマ 児童虐待をどうすれば無くせるか?(映画のネタバレあります。)


そのヒントを得る為に2016年8月23(火)渋谷シネクイントに行って来ました。

簡単に内容を説明すると30年間カトリック教の神父が児童に対し性的虐待を繰り替えしていたことを地元の新聞社が日の目に晒す内容です。

日本とは違う社会背景と宗教観念が元になっていますが、そこから何かしら共通したヒントを得たいと思い観てきました。

メモを取りながら見たいと思う内容で自分の中でちゃんと消化できていない部分があります。今現在の感想をここに書きます。(DVD化されたら必ず見直します。)

宗教観念がしっかりしている国や地域にとって宗教が心の拠り所であり大いなる救いになります。
そのような状況における子供時代に神父から特別に目をかけられるような感じのマインドコントロールから始まり、性的な虐待に徐々に移行する…
神父との接触の仕方は様々ですが、例えばそれに対して神に近い存在である神父に選ばれることが初めの頃は嬉しいと感じることもあるようです。

子どもでも性的な虐待に対し意味が分からなくても違和感・嫌悪感・罪悪感を感じます。

それが心の傷とならない人はまずいないと断言できるでしょう。
殆どの人がその暗い過去を隠しながら生き、または権力構造によって訴えても揉み消されたりします。


そして虐待を受けたことでこの世を去った方も確かにいるのです。
そのシーンでは、やはり思い起こすのは若くして自ら命を断ったMちゃんとAちゃんのことです。

当然ですが虐待の種類を問わずそれ程に受けた者の人生を狂わすのが児童虐待なのだと再認識しました。


被虐待者が「性的虐待は精神的虐待でもある。」と語っています。
私は自分が母親から性的虐待も受けていたので、その言葉の的確性が良く分かります。


昨年7月に東京都中央区で自分の虐待の経験を語る機会がありましたが、
会の後に「母親からの性的虐待は具体的にどのようなことをされたのですか?」と質問を受け、その時はされたことの一部しか話しませんでした。

具体的に全て話していいのかどうか?聞く側の心情を考えると同時に、自分が全て話すことに耐え得るだろうか?とも考えました。

映画の中で「もう これ以上話せない」と言った被虐待者と自分が重なりました。


神父から性的虐待を受けたにも関わらず教会に通い続けている方の証言について。
教会は人間が作ったものだが、宗教は神である。
教会(神父)と宗教(神)を分けて考えていると言う発想は、少なくとも特定の宗教を信じていない私にはとても難しい考え方だと思いました。

それ程に個人の根底に根付いている宗教の存在の大きさ・偉大さを考えると、その存在の中にある腐敗を白日に晒すのはとても容易ではないことです。


今回の件は新聞社が真実を暴いてくれたことが、とても大きな功績であったと思います。

権力構造の癒着については、虐待よりも私は障害の方の視点で興味を持ちました。

またマスコミを味方につけることで開ける道はあると思いました。

当事者の声を集めるのは、いつだって難しいことですが
「今生きているからこそできる」と私は思っております。
生き抜いた一人の人間として何か役に立つ事があれば批判を恐れずに行動して行こうと思っております。



そして虐待は国を問わず大きな社会構造の中で「起きてしまったこと」なのだと認識しております。
日本のみならず虐待が存在することを皆さんもご存知だと思います。

そうであるならば、また新たな社会構造の変化によって「今後起きてはならないこと」と位置づけて変化を起こして行く中でいつかはこの社会から無くなるのではないでしょうか?


例えば戦争のように…戦争体験者がその経験を語り継ぎ二度と戦争をしないと国として誓うように

私達…生き残った被虐待者は今後の社会の為に自己の経験を語り継いで活かすことは可能なのではないかと思います。
そしてその様な動きが社会に対して何らかの変化を起こして行くと思っております。


自ら命を断ってしまっては、どんなに悔しくてもどんなに悲しくてもそれを伝えられません。

私は自己の経験を語ると同時に、建設的な未来への希望も語れる人間で在りたいと改めて思い直しました。

続きのストーリーはこちら!

10年振りの天国からのメッセージ

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