【第25話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。

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前編: 【第24話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。
後編: 【第26話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。

そのうどん店は、自宅から車で15分程度の場所にあり、仕事が忙しいので有名な繁盛店らしい。


そこも震災で大きな被害を出したらしいのだが、復旧が早く店舗営業を再開し、慢性人手不足だったため求人を募集していたということだった。


あまりにも忙しく、かつ人手不足、よほどのことがない限り不採用にはならないような条件で、僕は父子家庭やらなんやら、ある程度のネガティブな情報も入れつつだったのだが、無事採用ということになった。


店長は僕よりも10歳も若い男性で、いかにもチェーン店の店長といった感じのはきはきとした青年だった。10歳も若い青年に頭を下げるなど、もはや何の抵抗もない。


彼曰く、採用の理由としてまず第一に男であるということ。職業柄、そして、僕が働きたいと言っている9時から15時はパートのおばちゃんがほとんどで、男性のアルバイト応募はなかったとのこと。しかも30代という年齢も、この業種では待っていてもなかなか来ていただけないらしいのだ。


第二に、休みはいらないのでとにかくシフトに入れてほしいという積極性が、人手不足の繁盛店を任されている若い店長にはおあつらえ向きの人材だったということだ。


父子家庭という生き方にはあまりピンと来ていなかったようだが、僕の働きたい時間帯と日数と店舗側の思惑が一致したらしく、早速週明けの月曜日から仕事に来るようにと言われたのだった。


時給は780円。9時から15時で週5のシフトは確約してくれた。


早速月曜日の指定された時間に事務所に出向き、ささやかな入社式のようなオリエンテーションのようなものが行われ、従業員の心得とか、会社の生い立ち、規模、考え方といったもののレクチャーがあり、数枚の紙にサインをさせられ、もろもろ提出しなければいけない書類を提出したりした。


その中で、交通費の申請という書類があり、僕は当初から車での通勤を希望していたので車のガソリン代を交通費として申請しようとしたのだが、ここで大きな問題があった。それは、交通費を申請するにあたり任意の自動車保険の被保険者証のコピーを提出するよう言われたのだが、僕はこの時任意の自動車保険に加入していなかった。


震災のバタバタでちょうど切れてしまったタイミングであったし、新たに保険料を支払って契約するだけの財力がもはや残ってはいなかったため、あえなく失効という憂き目にあっていたのだ。


それでも車検が切れているわけではなかったので、無保険状態で車に乗っていたのだが、被保険者証のコピーがなければマイカー通勤は認められないし、交通費も支払われないとのことだった。


はじめはしらばっくれてなんとかごまかして交通費をいただこうと目論んでいたのだが、そんなことが出来るはずもなく、あえなく通勤難民になってしまった。


新たに獲得した仕事場は、車で15分。自宅からは決して近いと言える距離でもなかったのだが、マイカー通勤が出来ないのであれば仕方がない。それに何より、万が一のことを考えたら車に乗るのも危ないには違いない。


当初は車でしか通勤できないと思い込んでいたが、待てよ、車に乗らなくても時間をかければ自転車でもいいんじゃないのか、と思ってきたりもするのだった。今更、車に乗って仕事に行くことが出来ないという状況を悲観して考え込むほど生活に余裕は無かったし、くよくよするくらいなら、先に進むためにはどうしたらよいかを考えた方がいい。


これだけ苦労してありついた仕事だ、これしきの事で職を失い、いつ見つかるとも限らない求職活動の生活に戻るなんて、まっぴらごめんだった。


仕方がないのであっさり車に乗ることは諦め、自転車で通勤することに決め、店長にその旨を伝えた。


自転車で約40分。できないことは無かったし、ここのところよく聞く、これもエコというやつに違いないと、前向きに考えることにした。なんだってやればできるはずだ。


父子家庭になり5年ほどの月日が流れ、生きるか死ぬかの大震災を乗り越えた僕にとって、生活のレベルを下げたり、さらなる不都合を受け入れたり、予想外の事態に直面したりしても、それはそれで考え方ひとつと思えるようになっていた。


今置かれている状況を受け入れるしか僕たちに明日はない。


車に乗れないのであれば、乗らないという環境を受け入れたうえで、なおかつそこでどうやったらベストを尽くすことが出来るのかを考えればよいだけだ。こうなったら、生きていくために恥も外聞もプライドもない。今日1日無事に乗り越えて、子供たちにご飯を食べさせる。


それさえできたら、十分だ。


僕と同日に入社した人が他に2人いたけど、3日もたたないうちに辞めてしまった。


仕事は目が回るほどの忙しさで、覚えなければいけない物の量が半端ではなかった。なるほどこれで絶えず人を募集しなければならない理由が分かった。


9時から15時までが僕のシフトで、その間はトイレに行く暇もないほどだった。慣れるまでは、ふと気が付いて時計を見ると14時なんてことがよくあった。


でも、僕がこのバイトを辞めなかったのにはもう一つ理由があった。それは、仕事終わりに食事をとることが出来るのだが、うどんや天ぷら、ご飯など、組み合わせ自由で600円までなら90円で食して良いということになっていたからだ。


もともと安価な値段設定の店であったため、600円分といえばなかなかのボリュームで、なおかつ自分で食べるものは自分で作ることになっていたので、適当にご飯やうどんの量をごまかして大盛りにして食べた。90円で1日1食、とにかく仕事が終われば腹いっぱいご飯が食べられるというそのテンションだけで、新しい人が入ってきてもすぐに辞めてしまうここのバイトを続けていた。


1日1回でも、お腹がいっぱいになるということはありがたかった。毎食の90円は給料天引きだったので、お金がなくても食べることはできたし、シフトにもコンスタントに入れてもらえていたので、たとえバイト終わりに90円分ご飯を食べても、給料も若干ではあるがアップしていたのだった。


ここでのお昼ご飯のおかげで、僕は朝ごはんも晩ごはんも食べずに生活することに、それほど苦痛を感じなくなっていた。


震災が終わり新たな生活が始まったのだと思った。


朝起きて子供たちにご飯を食べさせて身支度を済ませ、学校に行くのを見送りつつ洗濯やら掃除やらを片付けていく。子供たちが学校に行くのが7時40分ごろで、僕が出かける8時までの間にどこまでできるかが勝負だった。仕事が終わっても家の仕事が残っていると、憂鬱で仕方がない。


適当に身支度を整えて、朝ご飯は食べずに8時になったら自転車に乗って家を出る。それは毎日毎日目まぐるしいほどの朝だった。朝起きてから仕事に出かけるまで1度たりとも座ることは無い。


毎日の自転車通勤もなかなかの運動で、日ごろ運動不足の体にはだいぶきつかったかし、ペース配分を考えないととても一人で家事と育児をこなし仕事をするのは体力的にかなりきつい。楽できるところは楽をしなければ身が持たないので、仕事場までの一番の近道を探しながら自転車に乗った。


常磐線の線路沿いを北に向かうのが一番の近道ルートで、毎日毎日自転車を漕いだ。こんなに毎日自転車に乗るのは高校生以来だった。


雨の日も風の日も、晴れの日も雪の日も嵐の日も、毎日毎日自転車を漕いだ。


自転車を新調するだけの経済的余裕はなく、自宅に置いてあったおんぼろ自転車を何となく修理して乗らざるを得なかったため、途中よくパンクした。砂利道を通っていたからか、毎日の事なのでタイヤの劣化が早かったのかは知らないが、自転車のパンクはきつかった。帰りならまだいい、ゆっくり歩いて帰ればそれでよかったのだが、行く途中にパンクとなると、自転車を捨てていくわけにもいかないので、自転車を押しながら小走りで仕事場に向かう。自転車で40分かかるのだから、自転車を押しての小走りではどのくらいかかるかわからない。パンクした自転車を押して歩くだけでも、かなりの重労働なのだ。


天気が良い日ならそれでも何とか対応できるのだが、雨でも降っていようものなら、今から仕事をするのかと、ずぶ濡れになりながらの足取りは重かった。


そんな時は惨めだった。いい年したおっさんが朝っぱらから雨に濡れながらパンクした自転車を押している。雨の日に自転車に乗るためのカッパのようなものがあればまだしもなのだが、そんなものはとても買えない。自分の普段着る洋服でさえ、もう何年も買っていないというのに。


一体何をしているんだ、こんなことをしていて何になるんだと、ご飯も食べず自分のやりたいことも出来ない、毎日お金の心配をしながら不安で押しつぶされそうになる。それでも、雨に打たれながら歯を食いしばらなければならない自分の運命に、僕は本当に、日に何度も絶望した。


こんな生活から抜け出さなければいけなかったけど、その手立ては一向に見つからなかった。


歯を食いしばるたびに「子供たちのためだ」と呪文のようにつぶやいた。


止めたくても逃げたくてもこの生活を続けていかなければいけなかった僕にとって、自転車のパンクという予期せぬ事態すら想定しなければいけなかった。それはもちろん、出勤するにあたりモチベーションが下がるという理由もあったが、それ以上に自転車のパンクは、生活に直結する由々しき事態を生むのであった。


連絡をすれば若干の遅刻はなんとかカバーしてくれるだろうけど、それよりもそのわずかな遅刻で給料をカットされる方を僕は嫌った。


これが時給で働く者の悲しいところで、こんな極貧の生活をしていると、10分でも20分でもその時間が惜しいのだった。くだらないと思うかもしれないが、そうやって小さく小さく積み重ねていかなければ、生活をすることが出来なかった。


お金にして100円か200円程度だろうか、普通の人にとってそれは缶ジュース1本分の、さして気にすることも無いほどの微々たる金額に違いないが、毎日のご飯も食べられない僕にとっては、重大な損失なのだ。300円あれば1日分の食事を子供たちに提供することが出来るのだから。


自転車がパンクすれば直さなければいけない。直すためにはいくらかのお金も出ていくわけで、さらに遅刻分の時給がカットされるとならば、考えただけでも恐ろしいのだ。パンク修理代800円と合わせると1000円の損失、1000円、今の僕にとっては目のくらむほどの大金である。


約40分自転車に乗り、仕事場に着くと白衣に着替え指紋認証式のタイムカードで出勤し、トイレに行く暇のない15時までの激務を乗り越える。


残業は一切なく、15時なったらすぐに退勤しなければいけない。残業せずに退勤しなければならないというのがこの店のルールだった。


労務規定により6時間以上労働する場合、48分の休憩を取らなければならず、15時1分から6分の間に指紋認証して退勤しなければ、仕事が終わったにもかかわらず無駄に48分仕事場で休憩してから帰宅しなければいけなくる上に、労務規定違反として厳しくチェックされるためなかなか面倒なのだ。


だから、仕事が終わっていようと終わってなかろうと15時1分から6分までの間に指紋認証を済ませ、再び現場に戻って残った仕事を終わらせなければいけない。早い話がただ働きなわけで、それをしなくて済むように必死に仕事を覚えて何とか時間内に終わらせなければならなかった。


仕事が終われば遅めの昼食の時間で、600円分のうどんをたらふく食べて帰宅する。


また自転車を漕ぎながら朝と同じ道を通って帰った。


帰り道ですれ違う電車を眺めるのが、仕事終わりの楽しみ。


そうしているうちに家に着くのが16時過ぎごろで、いったん帰宅して子供たちの帰りを家で待ち、無事帰宅して遊びに行く姿を見送ってから近所のスーパーに買い物に出かける。


買い物といってもお金もないので、安売りのものを物色する程度。給料日3日前とかになるともう買い物も出来なくなるので、1日いくらまでと決め、それ以上は使わなかった。


お金があろうとなかろうと、子供たちの食事はどんなことがあっても手作りをした。レトルトやインスタントでまかなうなんてことは極力しない。毎日買い物に出かけ毎日作る。


これが子供たちにしてあげられる唯一の親らしいことだった。


子供たちには何も残してはあげられないだろう、だからせめて、豪華ではないけど毎日ちゃんと作ったご飯を食べさせてあげたかった。


うまくやりくりすれば1日300円程度で子供たち2人の食事を作ることが出来た。朝は質素なものだったけど、なんとか安い食材を探して手作りすれば、それなりのものが作れるのだった。


1日300円というよりも、月に1万程度を食費プラス雑費に充てていたため、その中でやりくりしなければいけない。この1万円で食費もまかなうし、シャンプーや洗剤といったものも購入しなければならない。ここのやりくりを間違うと大変なことになるため、お金の使い方には毎日気を使った。


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