【第28話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。

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仕事を見つけて働きに出たのはよかったけど、給料をいただけるまでに1カ月あるわけで、もう僕の財布の中の残金はほとんどなく、給料日まで生きながらえることが出来るのかは定かではなかった。

水戸の駅ビルまで通う電車賃は、運よく以前働いていたとき使っていたsuicaがまだ残っていたので、それを使って通うことが出来た。

当然のように必要経費、光熱費その他雑費の類はまるまるスライドさせているわけで、この時点で2カ月滞納の電気代に限っては、いつ止められてもおかしくない状況だった。とにかく払えないものは払えないのだから、諦めるしかない。いよいよ止められるとなったら、その時考えようと思った。

今の僕にはそれ以外にも考えなければならないことが山のようにある。

突然に閉店を余儀なくされた前の仕事場は、その後マネージャーから1度連絡があり、先月分の給料は支払われないだろうという報告をいただいていた。相変わらず社長の行方は分からぬままで、会社にも一銭の金もないとのこと。

現実的に給料を支払うのは難しいという結論だった。

状況を説明し、労働基準監督所に給料未払いの申し立てをすると、何か月か後に8割程度の給料が立て替えられるからどうのこうのと言っていたが、今の僕にとって数か月後の給料など、もはや無いも同然だったので真剣に話を聞く気にはなれなかったけど、従業員全員で申し立てをしなければならないということだったので、その申し立てについては了承した。

数カ月と言われても、1カ月や2カ月の話ではないらしく、半年とか、もしかしたらそれ以上先の話になるかもしれないということだったから、今の僕にはとても現実味を感じることが出来ない。仮にその時に給料の何割かが支払われるということになったとしても、僕達がその時まで生きていられる保証はないわけで、今すぐに支払ってもらわなければ何の意味もないと思った。

これで、給料日までの1カ月余りの収入の見込みがなくなったわけだったのだが、だからと言って子供たちにだけでもご飯を食べさえてやるだけのお金が残っているわけではなかったし、お金を借りる当てなどない。

最大切り詰めても1日300円は子供2人の食費としてどうしても必要で、それでも僕の口に入る食事は作っているときにする味見程度のものだった。

育ち盛りの子供たち2人を食べさせるために1日300円というのも、ほとんど無理な金額なのである。

お昼ご飯は学校の給食でまかなってもらえるので良かった。朝ごはんは白米と海苔がせいぜいで、晩御飯に300円分のお金を使う。成長期真っただ中の子供たちは毎日とにかく肉を欲したので、安いお肉を探し、さらに見切り品の野菜や豆腐でかさましする生活。ジュースやお菓子やデザートの類は一切買ってあげることが出来なかった。

それでも単純計算で月9000円程度の支出があるわけだが、とても9000円などという大金を持ち合わせてはいなかった。

あたらしい仕事場の給料は月末締めの10日払いということらしかったので、厳密にいえば初回の給料は1カ月を少し切る程度だったのだが、それでも数千円のお金が、生きるために必要だった。

大震災からまったく生活を立て直せないでいる。もちろん被害が甚大だった地域の方々は未だにわが家にすら帰れないといった状況であることは知っていたが、破産すること2度、職を失うこと3度、車もテレビも無いなかで子供たちに食べさえるささやかな食事代300円もままならない。水道、電気、ガスといった生活に必要な経費ですら2カ月の滞納を余儀なくされ、仕事は不安定なアルバイト、毎日仕事と家事と育児に追われ、精神的に心安らぐ時間などない。

毎日、仕事場に向かう電車の中で、あと1カ月どうやったら子供たちにご飯を食べさせてあげることが出来るのか、悩んでいた。

当然仕事に対する労働意欲などみじんもなく、惰性とストレスで毎日が終わっていく。

どうせ働いてもご飯すら食べることが出来ない。生活していくために必要な経費すら支払うことも出来ず、給料のすべてがあっという間に消えてなくなる。

これでどうやってモチベーションを保てと言うのか。

けっして無駄遣いをしているわけでもなく、切り詰められるところはこれ以上ないほど切り詰める生活なのに、稼いだお金は右から左に消えてなくなった。こんな生活をいつまで続けなければいけないのか、せめて日本国憲法で定められた文化的で最低限度の生活とやらを手に入れたかった。

僕が新しく見つけた仕事場は、この界隈ではちょっとは名の知れた老舗酒蔵で、水戸の南口の駅ビル内で展開するハンバーガーと地ビールの店となり、バーガーショップのホール店員という役割が与えられた。他に蕎麦屋も経営しており、人手が足りない時にはそちらに回されることもあるということだった。

今まで通り水戸の駅ビル、以前は6階だったけど今度は4階。環境的にはさして変わらないので、すんなり仕事を始めることが出来た。

仕事の内容は基本的に接客だったのだが、水戸の南口というさしたる繁華街でもなく、茨城という田舎者の県で、高級ハンバーガーと地ビールというコンセプトがまったく浸透しておらず、バイト時間の朝10時から18時まで、お客が1組しか来ないなんて日もあった。

とにかく暇だった。

なぜアルバイトを募集していたのかも疑問に感じるほど、とにかく暇だった。

駅ビルの6階はレストラン街で、4階に至ってはラーメン屋街になっていたということもあり、4階に昼時訪れる客はほとんどがラーメン目当てで、僕はいつも暇な店内から行列の絶えない、茨城初上陸だという目の前のつけ麺屋をただ眺めていた。

バンズとミートはこだわりの品で、付け合わせのポテトに至っては東京から取り寄せる気合の入れよう。数種類のハンバーガーがラインナップされていて、ドリンクとセットでランチメニューとなっていたのだが、一番安いものでも1000円からとなっていたため、100円バーガーに慣れてしまった茨城の田舎者にはなかなか理解されないでいたのだ。

僕にとっては仕事が忙しかろうが暇だろうが、そもそも労働意欲がないのだからどちらでもよかったのだが、以前働いていたうどん屋のようにトイレに行く暇もないほど忙しいのも考え物だが、今度のバーガーショップはやることがないほどの暇さ加減で、これはこれで逆に疲れるのだった。

ガラス張りの窓から見える外の景色を眺めたり、駅ビルに来る人たちをウォッチングしたりして、それでもまだやることがないから、冷蔵庫の中のデザートをつまみ食いしたり、自慢の地ビールを勝手に飲んだりしていた。

さすがは老舗の酒蔵、ここの地ビールは海外で高い評価を得ているらしく、味は抜群。

なかでもヴァイツェンという種類のものが、僕はお好みだった。

目の前のつけ麺屋は東京ではかなり名の知れた店らしく、いつも行列が絶えなかった。

そのつけ麺屋の店先では必ず一人の店員が毎日毎日、ここのつけ麺はこんなつけ麺なんですよ的な決まった文言を唱えて客にアピールするのだが、その文言を毎日聞いていたら一字一句ま間違うことなく暗唱できるようになるほど、毎日が暇だった。

ハンバーガー屋の店内は、満席になれば20名以上は入れるのだが従業員は2人。

一人は店長でもう一人が僕。

キッチン一人にホール一人。その一人が入ったばかりの新人の僕でも何の問題もないほどに暇を極めており、年下の店長は15時を過ぎるとアルバイトにやってくる斜向かいのクレープ屋のバイトの女子高生とおしゃべりするのが大好きで、話が盛り上がっちゃうときなどは、店内に僕一人なんてこともよくあった。

仕事は決まって朝10時から18時まで。

仕事が終われば決まった時間の電車に乗り、本を読む。駅の改札に向かうまでに通り過ぎる数々の惣菜屋がおいしそうで、購入することのできない僕はただただいつも眺めていた。

ハンバーガー屋は平日も土日祝日も同じテンションで暇だったので、1カ月も過ぎたあたりから、水戸の街中にある別の店舗に行かされるようになった。

そこは、水戸ではちょっとした高級デパートの地位にある京成百貨店というところの蕎麦屋で、水戸駅からはバスで10分程度。土日祝日はそちらの蕎麦屋に行くように命じられたのだったが、いくら交渉してもそこまでのバス代が支払われないということで、行きも帰りも歩いていかなければいけなかった。

季節は冬。12月の年の瀬はすっかり冷え込んでいる。バス賃は片道せいぜい200円程度なのだが、そのお金がもったいない。往復で400円、これでは日々の食費よりも多いではないか。

とても自腹を切ってバスに乗ることはできなかったし、なぜ業務命令で遠いところに行かされているのに交通費が出ないのか理解できなかったけど、だからと言って仕事を変えるわけにもいかない。

仕事を探すだけで一苦労なのに、また労働していない空白の期間を作ればどんどん生活が困窮してく。理不尽だと思いながらも片道30分かけて寒空の中歩くしかなかった。

蕎麦屋の仕事も主にホールだったのだが、仕込みや忙しい時間帯はキッチンに入り手伝った。ここはまあまあ忙しくて、お昼時ともなれば高級志向のご婦人方がこぞって訪れるのだった。

僕以外の従業員の人たちもみな感じの良い方ばかりで、仕事は楽しかった。

お昼休みになったら賄いを作って食べさせてくれた。本当は1食幾らでタイムカードに自己申告で記入し給料天引きになるらしいのだが「書かなければ分からないから」という理由でただで食べさせてくれた。他の従業員は全員漏れずに申告していたので、みんな僕の状況を知って気を使ってくれたのだろう。

酒蔵が経営する蕎麦屋ということで、ここもビールやら日本酒やらお酒は充実していて、お昼休憩のときみんなで座って賄いを食べるのだが「勝手に飲んでいいよ」といって、これまた酒を飲ませてくれた。

仕事中だろうが何だろうが、ただで腹の中に入るものはなんでも入れる。モラルだのルールだのというきれいごとはすっかり頭にはない。空腹を満たせるかどうか、それ以外は考える必要すらない。

仕事中にどうしてもお腹がすいたら、冷蔵庫のスイーツをつまみ食いして蕎麦湯をがぶ飲みした。

専属のパティシエが作る創作スイーツは、どれも絶品だった。

土日祝日は寒空の中30分かけて仕事場まで歩きまた30分かけて歩いて帰るわけなのだが、仕事は楽しかったし、みんなと話をしていると気が紛れた。なによりご飯がただで食べられるというのは、僕にとっては何物にも代えがたいものだった。

土日祝日に1食は必ずお腹いっぱい食べられるようになったことで、だいぶ生きることに対するモチベーションも持ち直していたのだった。

ただ、仕事場が遠くなってしまった上に歩く時間もあって、家に帰れるのがだいぶ遅くなってからという日もちらほら出てきてしまったのは、誤算だった。

家に戻りご飯を作って子供たちが食べ始めるのが20時過ぎごろになり、日中子供たちがどこで何をしているのか、全く分からなくなってしまった。相変わらず上の子はちょくちょく学校に呼び出されたり警察にお世話になったりを繰り返していたが、僕はもう考えないことにした。

しばらくしたら受験生になるわけだし、そうなったらさすがにおとなしく勉強を始めるに違いないと、信じてみることにした。

よく考えてみたら、僕だって同じ年頃のころは似たようなものだったし、現実的に一人しかいないのだから、信じるしかない。信じることでしか前に進めないのなら、後は考えても仕方がない。

こんな感じで転職をし仕事も慣れて友達も出来、給料は月11万円程度もらえるようになって、徐々にではあるが生活もそれなりにできるようになりつつあった。

それでもまだテレビを購入するまでには至らず、車の購入など夢のまた夢で、相変わらず3食満足に食事をすることすらできなかったし、スライドさせている光熱費の類も清算することはできていなかったけど、仕事を変えて1カ月が経ち、それなりに生活は落ち着きを取り戻しつつあったのだった。

以前の仕事場の給料未払いでの店舗閉鎖の件はその後進展があった。

ハンバーガー屋の仕事を始めてすぐのころにマネージャーから連絡がり、その後の経過と今後のことについて話がしたいので、以前の店舗に集まれる人は集まるようにと言われた。

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