毒親(虐待・自己破産・カルト宗教)の元に育った私が、一部上場企業に就職・結婚・出産・都内に一軒家を建てるまでの話 〜3.カルト宗教〜
私は両親からただの一度も誕生日を祝ってもらったことがない。
お金がなかったからでは無い。
おめでとうの言葉すらかけてもらったことが無いのだ。
そして悲しいけどきっと母は死ぬまでそれを口にする事は無いのだろう。
母は私が3歳の時にある宗教に入団した。
貧困と暴力から逃げるために母が宗教に走ったのか、母が宗教にかぶれているので父の暴力が始まったのか私は知らない。
自称キリスト教を名乗るその宗教は何を置いても「神」が優先だった。
自分の命より、子供の命より、神。
お祝い事は一切禁止されていた。
誕生日、ひな祭り、クリスマス、七五三、入学祝い、成人式。
幼き日の私から言わせると「お雛様?何それ美味しいの?」である。
学校を祝う歌だと校歌を歌うことも禁じられていた。
「校歌斉唱、起立!」と言われたら立たずに席に座っているように言われた。
立つ行為自体、祝っていることになるからだ。
みんなが起立して歌っている間ずっと席に座ってないといけなかった。
引っ込み思案な私は学生期間中ずっとそれに悩まされた。
細かい話だか最初から立っている場合には座る必要はなかった。
出来ることなら会の間ずっと立ったままが良いと思っていた。
中休みも昼休みも放課後も私はひたすら本を読んでいた。
家に帰ってもテレビもゲームもおもちゃも無い。
折り紙や塗り絵で母が遊んでくれる事も無い。
中休みも昼休みも放課後も私はひたすら本を読んでいた。
小学校の図書室から本を借り、毎日最低5冊は読んでいた。
物語の中に入り込むと別人の気持ちになれ、現実逃避できた。
お陰で低学年図書室の本は全部読み尽くしたし、高学年図書室は辞書の類以外は読み干してしまった。
赤毛のアンの様に新しい親の元やり直したいと思い、
小公女セーラの様に本当の親が現れないかと思い、
足長おじさんの様に1人で生きていくサポートしてくれる人がいないかと思った。
小学校5年の時、友達に授業で使う布を買いに誘われた。
親から許可が貰えず私は1人で買いに行った。
小学校6年の時、卒業の寄せ書きアルバムを買いに誘われた。
母の許可がもらえるわけが無い。
当然のように1人で買いに行った。
友達の家に遊びに行ったことが数えるほどしか無い。
部活も習い事もしたことがない。
週に3回宗教の集まりに連れて行かれた。
居眠りすると「鞭部屋」に連れて行かれた。
自分でパンツをおろし鞭を受けなければいけなかった。
小学生の子供が毎回2時間も椅子の上に座って説教を聞かないといけないのだ。
じっと座ってられる子の方が少ないだろう。
鞭室には毎回列が出来てた。
MY鞭を持った親が子供を連れて並んでるのだ。
子供は大声を出して泣くでもない。
自分の番が来るのを消え入りそうになりながら待っていた。
我が家の歴代の鞭は園芸用のグリーンのホース、特製のベルト用の厚い皮、ガス管用の固くてオレンジ色のホース、車のバンパー。
ベルトの皮や車のバンパーは注文書が回った。
実に異様な光景だ。
因みにこれは痛い順に書いてある。
車のバンパーは死ぬほど痛かった。
打たれた数が目で見て数えられる位跡が付いた。
母は「本当に痛かったら声は出ないはずだ」と泣くと回数が増えたので私たちは鞭打たれている間声を殺して耐えた。
避けたら太ももの前に周り余計に痛いのだが「避けたからもう一回」と言われるので足を踏ん張って耐えた。
最後の鞭は中学校の制服を着ていたので365日×10年位は続いたであろう。
宣教活動にも参加させられた。
真夏の暑い日も、真冬の凍えそうな日も
時間があったら連れまわされた。
帽子も手袋もなし。
日焼け止めも、ハンドクリームもなし。
お陰で冬でも日焼けで真っ黒だったし、
手も唇も荒れて深く裂け血が滲んでていた。
99%嫌な顔をされるのが分かってるのに見知らぬ家を一軒ずつ周り、ドアを叩いては布教する。
クラスメイトの家を回るときは「お願いだから私の順番になりまさんように」とわざと歩幅を遅くしたりしていた。
この宗教の最も厄介なところは「排斥」と言う措置だ。
宗教脱退、婚前交渉、輸血など規則に背く行為をすると「排斥」される。
そうすると宗教関係者からは一切関係を絶たれる。
街ですれ違っても声をかけてはいけないし、目も合わせてはいけない。
例えそれが「親子」であってもだ!
この規則は今も私を悩ませている。
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