社会人大学院黎明期

欧米では古くから職業人教育の重要性が意識されており、また個人の方でも一定の職業経験をした後により高度な実践的な専門教育を受ける為に仕事を辞めて大学・大学院に戻ることが多々あった。

比べて日本では職場でのOJT(オンザ・ジョブ・トレーニング)が主流。

大学院は理系の人間か、研究職を目指す人が行く特殊な世界。

折角苦労して入った会社を辞めることは、年功序列が評価基準である会社社会ではマイナスでしかなかった。


唯一例外的に行われていたのが銀行などの金融機関、商社などの大企業による将来の幹部養成の一環としての海外ビジネススクールへの派遣。

殊に1980年代になって「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言う本が世界的にベストセラーになった様に多くの輸出型の日本企業の成功するに至り、ビジネススクール上位校は競って日本人を受け入れた。

1990年代になると日本でも「有職者の専門教育」の必要性が主に教育界の中から湧き上がってきた。

しかし上述の様な日本企業社会の特性を考えると、職歴を中断する様なものは受けいられるのが難しく、自ずと平日夜間と週末を利用したカリキュラムにならざるを得なかった。


国立大学で一番最初に夜間大学院を設立したのは筑波大学。

しかし、その時の教授陣の顔ぶれを見ると東京工業大学のメンバーが中心であったことが分かる。

1989年に開設されたが一期生、二期生は「野心」に燃えた受験生を教授陣が集めてきたとの噂。

私自身は三期生として入学したのだが、ソニー、キャノン、日本航空、JR東日本、(当時の)安田生命、チェイスマンハッタン銀行、博報堂等の有名企業のみならず、研究所勤務の人達も多かった。

倍率10倍近くだったので正直受からないよな、と思っていたものの何故か一回で合格。

後から考えると受かった理由がわかる様な気がした。

この社会人大学院は、「経営学」「数理科学」「計算機科学」の融合を目指しており、文系と理系の双方の理解ができる人を求めていた。

また修士号、「経営学修士」または「経営システム科学修士」のどちらから生徒が選べる、を取得するのに修士論文を書き審査に合格する必要性があった。

半年位を費やして関係論文を読み漁り、過去の周辺業績をまとめ、その頃勤めていた市況産業に属する会社の経営に資する為に統計的なモデルを構築したいとの「研究計画書」は教師陣の「ツボ」ドンピシャリで、かつ修士論文にたどり着くに十分な理解と準備が出来ていると判断されたのだと思う。


2年間の修士課程は短い。実質、1年半もないだろう。

その意味で入学してから修士論文の課題やそのアプローチを検討しだすのでは到底間に合わない。

皆んな真面目な人達だったが、それでも就業しながらだったので、出席出来なかった講義をキャッチアップする為や、宿題をする為に大学院で徹夜する輩もいた。

今ある多くの大学院と絶対的に違うのが実業を重んじる一方で圧倒的にアカデミアを極める必要性があったという点。

日本最初と言うのは凄いことで、当時の教師陣はそうそうたる顔ぶれで、その後、他の大学で社会人向け大学院ができた際には、そちらで学部長や専攻長を務められた方が沢山いた。

反対に苦労も多く、経営学でハーバード大学院の様に「ケースメソッド」と言う」実際の企業の事例を分析しようにも日本企業のケースがほとんど無かったので、日経ビジネスや新聞の切り抜きを教授が集めてきて資料を作成、それに課題を付けて事前配布。授業時間にその内容についてクラス討議。

その後に教授が、分析のフレームワークを説明するという具合だった。


あと特徴は少数精鋭。

2年になるとゼミを組成するが教師一人に生徒は平均して2ー3人。

大変濃厚な指導を受けられる。

ちなみ同じゼミに参加したのは私を入れて3人。

私以外はその後、他学(東大と学習院)の博士課程に進み、二人とも大学、大学院の教授になっている。

この教える方の人材の輩出も本学の特徴。


次いで翌年には私学で初めて青山学院大学で夜間を主とする社会人大学院が設立され、その後は春の山のタケノコの様に次々と多くの大学院が同様のプログラムを開設。


入学時の望みとは違って、入学者は卒業してMBAを取得したら昇進、転職に有利だろうと思うのですが、ほとんど影響がないという事実を、2年間に亘った貴重な時間を過ごしたという自己満足ですり変えているのが事実かも知れません。


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