【第38話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。

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その日、僕達は東京にいた。


看護師になるために学校に行っていた彼女の、看護師国家試験の発表を見に行ったのだ。


厚生労働省で国試の発表を見て、合格して無事40歳で看護師になった彼女と靖国神社に立ち寄った。


平成25年3月25日、靖国神社の標本木に開花宣言が出された直後で、テレビカメラも数台来ていた。


僕達は記念にとその標本木の前で写真を撮り、電車に乗って茨城に戻ったその足で、市役所に寄って婚姻届けを出した。


「桜が咲いたから」


そんなきっかけで、僕は結婚し、ある日突然に父子家庭生活が終わった。


子供たち以外の誰かと一緒に暮らすということが本当に久しぶりだったので、初めのうちは楽しく生活していた。子供達も何となくこの変化を受け入れたような感じでいた。多分、僕に合わせたのだと思うけど、それなりに家族のような暮らしを初めは送っていた。


お互い子連れということもありうまくいかない部分も多々あったのだが、それはそのうち気にならなくなるものだと思っていて、あまり深くは考えないようにしていた。


高校2年生と中学2年生になっていた子供たちは、それぞれの生活スタイルを持っていたために、家族団らんのようなものには特に交わりを持つことも無く、晩御飯が終われば2階の自室に戻る生活。


子供たちの晩御飯やその他家事に関しては、分担してやった。


分担といっても、彼女は忙しい看護師の仕事で手一杯な部分もあり、引き続きご飯を作ったりは僕の仕事だった。僕の仕事と言うよりも、ここまで子供たちを一人で育ててきて、今更誰かに「じゃあ、あとはお願いしますね」と言うわけにもいかず、やはり自分で負うべき責任の範囲内なのだろうと考えていた。


毎日のお弁当も相変わらず作ったし、家事もやった。


結婚してそれなりに楽になるのかと思っていたが、僕の性格も手伝ってあまり変化はなかった。


いまさら劇的に生活を変化させることなど、そうたやすくはない。


それでも、家に話し相手がいて毎日くだらないことでもおしゃべりする時間と相手がいれば、気がまぎれるのだった。


思春期真っただ中と言うこともあり、子供たちとの時間は一人の時よりも随分短くなってしまったような気がした。僕に話し相手が出来た分、その時間を子供たちと接することに使えなくなってしまったことで、接点は減っていった。


今まで10年近く、3人で肩寄せ合って暮らしてきたのだから、子供たちにとってはその生活がすべてであったわけで、やはりそう簡単には受け入れがたいものがあったに違いない。


もう、そろそろそれぞれの人生を歩むべき時期に差し掛かっているのだと思っていたし、子供達にもだんだんと生活に慣れてもらい、そのうち自立していってもらえればよいと考えていた。


週末になれば子供たちは母親のところに泊まりに行ったり、友達と遊んでそのまま友人宅に泊まったりしながら、上の子はバイトバイトで、あまり顔を合わせることも少なくなっていた。


下の子に関しては、そんな生活の中でもお兄ちゃんの受験で苦労したから、早いタイミングで勉強を教えて高校受験に備えようと考えていた。


全く勉強に関心を見せなかった下の子も、やるとなったら本気を出してくれるに違いないと、そう信じていた。


特に理由はない。そうであるに違いないと、勝手に思っていただけだ。


毎日の雑務をこなしながら、晩御飯の後などに一緒に勉強する時間を作った。


初めから長い時間は難しかったので、30分とか、40分とか時間を見つけ勉強を教えてみた。


何せ、今まで勉強などしたことは無い。


本屋で参考書や問題集の類を買い込み、塾に行かせてあげられない分の埋め合わせをしなければと思ったし、上の子の時の経験もある、コツもつかんでいた。


受験勉強など、始めるに早いにこしたことはない。


中学生の勉強など誰だってやればできるわけで、上の子も何とか1年間で形になったわけだし、まだ2年ある下の子に関しては、ここから何とかしなければと思っていた。


そのために力を貸せるなら、貸してあげたいと思った。


成績は底辺の底辺で、さらには勉強に関する興味はゼロ。


忙しい合間を縫って勉強を教えていたのだが、いつまでたってもやる気のかけらも見られなかった。


結婚し奥さんとなった彼女には小学生の女の子がいて、とても頭の良いかわいい子だった。勉強が好きでいつも勉強をしていたから、下の子も一緒に勉強をやってくれないかと思っていたけど、継続することがなかなかできなかった。


子供たちはそれぞれ楽しいことを見つけ、毎日をただダラダラと過ごした。


少なくとも、父親の僕にはそう映っていた。


結婚して1年が過ぎたけど、彼女は3交代勤務の看護師業務。


あまりの激務により、家にも戻れないような生活になっていて、そのほとんどを彼女は実家で過ごすようになった。実家の方が仕事場に近いということもあったし、常に家を空けているので、自分の子供をおじいちゃんおばあちゃんに面倒を見てもらっていたということもある。


世の中これが普通なのかもしれない。


結婚して1年で別居婚のような形に収まると、なんだか結婚する前より余計に寂しくなり、虚しくなったのだった。


父子家庭でも別居婚でも、さして変わりはない。


子供たちも大きくなって、顔を合わせる機会も減ってゆき、思春期ということも相まって、反抗的な態度をとることは常だった。その寂しさや不都合を紛らわすために結婚という選択をしてみたけれど、あっという間にそのすべてを失ってしまった。


家族とはいえ、今までやってきたそれぞれの生活スタイルは交わることがなく、もともとの生活スタイルを崩すのが難しかったからなのか、結局は別々に暮らす時間の方が長くなっていった。


お互いの子育てに対する考え方や価値観、今後の展望や身内の希望や思惑など、だんだん食い違いやすれ違う部分だけが浮き彫りになり、ことあるごとに喧嘩をし揉めるようになっていくお決まりのパターン。


考えてみれば、子供たちに家族みたいなものを味合わせてあげたかったわけで、僕にとってもこれから先子供たちが大きくなり年を取った後に一緒に歩んでいけるようなパートナーが欲しかったのだ。


一人ぼっちは孤独だった。


彼女の方は一人親といっても実家には両親がいてそこで暮らしていたわけだから、いままで暮らしてきた時間やそこに携わる人々のそれぞれのスタンスは、すでに他人が入り込む余地などなく、一人娘を大人3人で育てるという生活スタイルで成り立っていただけに、結婚して別の枠に収まるということに対しての不都合が多くなっていったに違いなかった。


ましてや、入ってみた別枠の家族は想定の範疇を超えた父子家庭。なじめるわけもない。


僕達だって筋金入りの生活スタイルは今更で、崩しようにも崩せない。


今までが今までだった分、ここに至るまでを理解してもらうことはやはり難しかった。


誰かと一緒に暮らしてみて初めて、自分たちの置かれている環境の異常さを、身に染みて思い知らされたのだった。


子連れで再婚するだけでも障害が多いものなのだろうけど、それをはるかに上回る障害があった。


父子家庭として過ごした今までの生活や、子供達との距離感、接し方、そのすべてが彼女の理解を超えていたに違いない。


理解しようと努力してくれていたことは知っているし、それはありがたいことではあったけど、理解しようと努力すればするほど、深みにはまるのもやむなしといったところ。


子供を育てるとか、どうやって接するとか、親としての責任とか、立場とか、考え方とかやるべきこととかの前に、僕達は生きなければならなかった。




そもそも、価値観の入り口が違うのだ。


価値観のずれは解消の糸口が見つからず、やがてお互いの考え方や意見を押し付け合うだけになり、理解されない現実はとめどない平行線の末に、ついに交わることはない。


時たま家に戻ってくる彼女と家族のようなまねごとをして暮らしていたけど、これは、家族なのだろうかという疑問は拭いきれなかった。


価値観のずれは、やがてお互いの感情に溝を作っていった。


上の子はすっかりアルバイト暮らしも板につき、自分でお金を稼いで好きなことをやって暮らしていた。家に戻る機会が少なくなって、バイトが終わり明け方まで遊び歩いて帰宅し、そのまま学校に向かうような生活。


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