思い出のバスに乗って:鬼さんこちら、手の鳴る方へ

  • 酒癖の悪い父のていたらくを見ては思ったものである。
    「自分は飲む人になるまい。酒を飲む人を人生の相手には絶対選ぶまい。」と。

    しかし、大概の人間は、年月を経てコロッと考えが変わったりするものだ。
    わたしもその例にもれず、二十歳ころから飲み始めたお酒の歴史は恥ずかしいながら、
    ちょっと自慢できるかもしれない。

    日本酒、ひれ酒から始まって、ストレートウイスキー、カクテル、アブサン、ブランディ、
    カルヴァドス、シュタインヘイガーシュナップス、そして最後に辿りついたのが、生ビールだ。
    シュタインヘイガーシュナップスはドイツの焼酎とでも言えばいいのだろうか、男性的な
    お酒である。わたしが歌姫として歌っていたアサヒ・ビアハウスで、時々味わったのである。
    これはビールの合間に飲むのであって、凍らんばかりに冷えて氷霜で真っ白になった
    陶器のボトルから、ぐい飲み盃くらいの大きさの小さなグラスに注いで一気に飲む。
    胃が「クァー!」と熱くなるくらいに強い!それもそのはず、アルコール度数は40度なのだから^^;

    カルヴァドスはわたしにとっては思い出の酒である。
    フランスのブランデー、りんご酒で、「Pomme d‘Eve、イヴの林檎」と言われる。
    レマルクの書いた本、「凱旋門」に度々出てくるお酒の名前だ。
    「凱旋門」は、ドイツの強制収容所から脱走してフランスに不法入国、その練達の手腕を
    見込まれ、闇の手術を請け負って不安な生活を送っている医師ラヴィックと、失意に
    生きる端役の女優ジョアンを中心に、第二次世界大戦中のパリを描いた物語である。

    この本を読んでカルヴァドスというお酒があるのを初めて知った。
    そして、一度は口にしてみたいと望んだものの、それが国内では入手不可能と分かり、ある日、
    仕事でパリへ寄ると言う本社の上司に、無理矢理頼み込んで、買って来てもらったのが始まりであった。
    その後、海外に出る機会があるたびに、上司は土産にと、持ってきてくれたものだ。
    (この上司は、当時社員として初めてイギリス語学留学のためにと、一ヶ月の休暇を申し
    出たわたしに、その許可が出されるようにと、アドヴァイスをくれた人である。)
    カルヴァドスは甘酸っぱい林檎の強い香りとともに、わたしには苦い恋の味もしたお酒である。

    あれはわたしが幾つの時なのだろう。
    覚えていないのだが、ターザン事件の前、小学校1、2年の頃ではないかと思う。
    父は岩手の競馬場で走っていた頃で、わたしたち母子3人は弘前の下町にある祖母の家に
    たくさんの叔父叔母、その家族たちと同居して、お世辞にも裕福とは言えなかったが、
    その日その日の食うことにはなんとか困らないで生きれた頃だった。

    4月の終わりから5月初めにかけての、弘前の「観桜会」今で言う「さくら祭り」の

    祖母はその頃、観桜会の期間だけ、公園内で蕎麦屋の屋台を出しており、母を含めた
    家の他の大人たちも、それぞれに仕事をもって外へ出ていた。
    その日は何故か、わたしの従兄弟にあたる他の子供達が家におらず、わたしと妹だけだった。

    ふと水が飲みたくなったのだが、当時の田舎にはまだ水道というものが通っておらず、
    台所の水場には長い取っ手を上下に動かして水を汲みあげるポンプがあった。
    まだ小さいわたしと妹の力では水を汲み上げることが難しく、わたしたちは
    家の中のどこかに水はないかと、探し回ったのである。
    と、あった、あった!机の上の高い棚の上に、瓶に入ったきれいな水を見つけたのだ。
    妹と二人、机の上に椅子まで乗せてやっと手が届き、一息にグーッと飲み干したその水・・・・
    その後のことをわたしは全く記憶していないのである。

    結論を言えば、水と思って飲み干した瓶の中身は、実は日本酒だったのだ。
    外へ出て、近所の子供達を追い回し、「鬼さんこちら、手の鳴る方へ!」と囃し立てられ、
    フラフラ千鳥足でふらついていたわたしを見つけ、自分の家に運び込んで医者を呼んだのは
    はす向かいの畳屋のおばあちゃんである。

    わたしは「急性アルコール中毒症」で危うく命を落とすとこだったのだ。
    かすかに記憶にあるのは、明るい日差しを浴びた縁側のある広い畳の部屋で、自分が
    布団の上に寝かされて、冷たい手ぬぐいを額に当ててくれている畳屋のおばあちゃんが、
    ぼんやり見えたことだけである。
    後はな~んにも覚えていない。

    後年、時計屋をしていた人のいい叔父が、保証人として判子を押した相手が夜逃げしてしまい、
    その負債のため、祖母は下町の家を売り払わなければならなくなり、わたしたち大家族は
    以後ちりぢりになったのだが、少し大きくなってから時々下町を訪れると、わたしは決まって
    畳屋のおばあちゃんや近所の人たちから、言われたものである。
    「あの時の酔っ払ったゆーこちゃんがねぇ~」

    「自分は酒飲みにはなるまい」とは大きく出たものだ(笑)
    6、7歳にして既にわたしは洗礼済みであった。

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