【第41話】父子家庭パパが所持金2万円からたった一人で子供2人を育てた10年間だったけど、これで良かったのか今でも分からずに文字にした全記録を、世に問いたい。~最終話まであと6話~
今までも、週末ともなればお兄ちゃんと連れ立って母親の家に泊まりに行くことはしばしばで、様々なものを買い与えてもらっているようだった。
それは知っていたけど、そこまで口出しするのも僕の流儀に反するわけで、子供達には自分で考え、自分の意思で行動してもらいたいと常々思っていたのだ。
下の子が自分で決めたのか否かは判断できなかったけど、母親が僕の前に直接現れることは無く、ある日、僕が仕事に行っている間に一緒に家から荷物を運び出し、それっきり下の子は家に戻らなかった。
母親の暮らす街は隣町の水戸で、家から歩いて5分のところに中学校があるにもかかわらず、母親に引き取られ、下の子は隣町に消えてしまった。
なぜ母親の家で暮らすと言い出したのか、その真偽のほどは定かではなかったけど、僕との関係を修復するのは困難で、やりたくないことをやらされるかもしれないリスクを冒してまで、ここにとどまる意味がないと判断したのかもしれなかった。
もしかすると、それほど考えもせずに決断したのかもしれない。思春期特有の無鉄砲さでいい感じに逃げ回りたいと思っていただけかもしれない。
単に楽な道を選んだんだのだろうと思ったけど、そう考えたくはなかった。
家を出ていく下の子の気も知れなかったけど、今更下の子だけを連れて行ってしまう母親にも理解できなかった。
それでもまだ「まあいい、そのうち飽きて帰ってくるだろう」そう考えていた。ほとぼりが冷めたら、母親の方も下の子をここに戻すのだろう。
こうして、いつの間にか3人暮らしだった僕たちは、一瞬家族の形態を変えたことをきっかけにして、どんどんと家族からの離脱者を増やす結果となり、相変わらず僕から金を借り、夜な夜な遊びまわる上の子との2人暮らしが始まった。
そんな中、上の子はバイトに明け暮れ、原付バイクを購入した。
バイクを購入するにあたって、僕は1円の援助もしなかった。そもそも原付に乗ることに反対だったし、そのうち車の免許を取得できる年齢になるまでしか使い道のない原付を買うということと、判断の甘い、ましてや糸の切れた凧のような暮らしを続ける思春期真っただ中で、もはや怖いもの知らずの上の子が原付に乗るという不安定さを危惧していたからだ。
親だったら、誰しもそう思うであろう忠告を、上の子は全く聞かなかった。
それまでも好き勝手に2年間ほどの時間を過ごし、一人で生きて行っているような錯覚も大きくなっていたのだろう、今更親の忠告など聞く耳を持たなくなった上の子は、僕には何の断りもなく、免許取得のために数回に渡り教習所に通ったらしく、その後勝手にどこからか原付を購入してきたのだった。
内心あきれていたのだが、年頃の男の子2人、それでなくても下の子との関係に気をもんでいる状態だったので、聞く耳の持たぬ上の子に関わる暇がなかった。
もう高校生なんだし、それなりに善悪の判断はつくのだろうと、一抹の不安はぬぐいきれなかったが知らぬふりを決め込むことにした。
「勘弁してくれ、どいつもこいつもいい加減にしてくれ」
本当はそう思っていたから、上の子の暴走を止めることをしなかったのかもしれない。
疲れていた。
父子家庭になってからというもの、様々な問題がわが身に降りかかるたびに、ストレスと格闘し疲れ果ててしまう。
もう、いい加減うんざりだった。
みんな好きにやればいいと、投げやりな気持ちが無かったわけではない。
大人になりつつある子供たちを前にして、いよいよこんな暮らし止めてしまいたいという欲求が、僕の中にもどうしようもないほどに膨らんでいた。
原付バイクの購入に気を良くした上の子は、弟の家出などどこ吹く風で、行動範囲の広がった遊び場で、自分勝手な青春を一層謳歌した。
40分かけて自転車で学校に通っていたのに、原付なら10分。高々の利便性向上を求めた挙句、さらに生活態度は悪化していった。
夜遅くまで遊び歩くのは相変わらずで、わずか10分で行けるようになった学校に通うために、朝は遅刻すれすれまで睡眠し、朝ご飯も食べずにお弁当だけを持ちバイクに乗って学校に通った。
バイク通学禁止の高校だったので、学校近くのアパートの駐輪場に無断駐車をし、そこから徒歩で学校へと行き、あたかも電車通学を装っての登校スタイル。
歯止めのきかなくなった青春は、とどまるところを知らない。
そのうち学校など遅刻の常習犯となり、1日学校に姿を見せないなんて日も、増えていった。
バイクに乗って、本来学校とは反対方向の水戸に行き、昼間から遊び歩く。
悪い友達とつるんで、やりたい放題だった。
それでも僕は何も言わず、ただただ毎日お弁当を作り続けた。どこで食べているのかは知らないけど、お弁当は毎日空になって返ってきた。
今さらごちゃごちゃ言っても仕方ないし、聞くとも思えない。下の子の家出で悩みが増えただけでなく、上の子の生活態度の悪化。
もはや万策尽き果てた感は否めずに、嫌々ながらも静観の態度を貫いた。
そうは言っても、高校くらいはちゃんを卒業するくらいの器量は持ち合わせていて、上の子は上の子なりに考えて生活しているのだろうと、それでも信じることにした。
そう思わなければ、生きた心地がしない。
奥さんと揉め、奥さんの実家と揉め、下の子と揉め、上の子と揉めるのは時間の問題だったけど、それはそれで仕方ない、上の子も母親のところに出ていくというのであれば本人の意思に任せよう、そう思った。
どうしても目に余る態度や行動があった場合は、遠慮なく上の子にも言ってやろうと思うことで、多少精神の安定を保っていた。
どこかで手綱を引き締めなければならない時期に差し掛かっていることは、理解していた。
思春期真っただ中、やりたい放題の17歳に小言を言ったら、間違いなく揉めるだろうことは分かっていたけど、分かってもらえないのだとしたら仕方がない、もはやここまでだったのだと、諦めようと決めた。
ここにきて、この10年近く続けてきた父子家庭生活、いや、子育てそのものを止めたいと、切に思っていた。口では言い表すことのできぬ感情がこみ上げ、悔しいやら悲しいやら、思い通りにならない人生を、恨んでいた。
なぜ、ここまでして頑張ってきたのだろうか、いったい自分は何をやっていたのか。
10年という途方もない時間が、無情にものしかかる。
もう無理だ、止めたい。
日に日に感情は膨れ上がり、このままみんな僕の元からいなくなってしまえばいいと、考えていた。
そんな感情とは裏腹に、出て行ってしまった下の子のことは毎日気がかりで、高校受験の大事な時期なのに、こんなことをしていていいのだろうかと心配になった。
親ごころという物は、複雑だ。
下の子を家に連れて帰ることは簡単だったかもしれないけど、詫びを入れるまでこっちから連絡は取らないでおこうと決めた。反省し、改心し、素直な気持ちで詫びることが出来なければ、恐らくここから先に進むことはできない。
中学2年生の彼にとって、それは簡単なハードルではない。
下の子が出ていき1カ月が過ぎたけど、一向に戻る気配はない。
学校には行っているような感じだったけど、どんな暮らしをしているのかはわからなかった。
上の子との2人暮らしも慣れてきて、朝ご飯とお弁当は作ったけど、晩御飯は数日に1度作ればよくなり、自由な時間が増えた。
自由な時間が増えたからといって、今更何をして良いかなど分からなかった。
10年もの間、子供たちを育てることのみに全神経を集中し、自分の許す限りの時間を使って子供たちのためだけに生きてきたと言っても、決して過言ではない。
好きなこともやりたいこともせず、ただひたすらに子供たちの生活だけを考えていたから、今更一人にされても、どうやって生きていけばよいのか分からなかった。
時間を持て余すだけで楽しいことなど何一つないし、やりたいことも思いつかない。
子供たちの成長を喜ぶ暇もなく、共に過ごす時間もあまりなかったけど、家にすら戻らなくなってしまったら、顔を合わせることさえなくなってしまった。
一人で好き勝手に振舞う子どもたちとは別に、僕だけが置いてけぼりを食らわせられたようで、戸惑っていた。