思い出のバスに乗って:口笛吹けば

口笛吹けば

 

「女が口笛なんぞ、吹くもんじゃない!」
と、ヒュ~ヒュ~やるたびに、子供の頃は叱られた。

弘前の下町の祖母タマさんの家には、3人家族の叔父の一家、4人家族の叔父の一家、そして、当時は地方競馬の騎手だった父親が盛岡に行ったきりで、帰って来ることがまれだった、母とわたしと妹の3人、まだ独り身の若きわたしの叔父3人とが住まっており、ひとつ屋根の下に14人の大所帯であった。
子供だけでもわたしを筆頭に5人である。遊んだり小突いたりする相手には事欠かなかった。
    
大人は皆、日中は働きに出ているのに、一人だけ何だか職業のよく知れない叔父がいて、これが小柄で歳がいっており、得体が知れないのも加わって、その叔父が家のどこかにいるときは、煙たがりながらも、なにとはなしにこちらの背中がシャキッと伸びていたものだ。
「女が口笛なんぞ」と言うのはその叔父である。

従兄弟も含め、同居していたのは俄然男が多かった。影響を受けやすいわたしは、必然とやることなすことが男っぽくなったのであろう。口笛はいつどこで耳にしたのか今では覚えていないが、小学校に上がるか上がらないかの頃には、すでにヒュ~ヒュ~と吹き始めていた。それが叔父の「女が口笛なんぞ!」となったのだ。
    
わたしが現在でも口笛自慢するに及んでいるという事実からすると、この叔父の度々の注意にもめげず、餓鬼の分際で、密かに、どこかで吹き続けたことになる。
    
1960年代の始め、わたしが高校入学したころには、下町の大所帯は、同居していた叔父の一人が、保証人の判子を押したことが原因で、祖母が家を売り払う羽目に陥り、すでに解体して何年か経っていた。
盛岡へ行ったきり鉄砲玉だった父も、体重制限がうまく出来なくなってきたのと、年齢とで弘前のわたしたちのもとに来、一家四人が暮らし始めて、これも数年経っていた。

祖母の家を出てから後、わたしたちは借家に移り、そこは3度目の借家であった。通りから入ると目前に大きな敷地が広がっており、両脇の崩れかけた石門の側には太い高い木が数本そびえ立っていた。石門から少し入ると、右手には、その頃既に使われなくなって久しい、すっかり寂れてがらんどうになり、はめられたガラス窓もあちこちが割れてしまっている工場の廃屋があった。その廃屋のすぐ横に、工員たちの宿舎であったのだろう、長屋が並び、わたしが高校を出て故郷を後にするまで、その一棟がわたしたち家族の住まいになった。

青春のまっさかり、高校時代は三度目の借家から始まり、新設高校で任命されたわたしの最初の仕事は、初の生徒会誌編集である。 数人のグループと手分けして、教師達の座談会を原稿に起したりイラストを考えたりと、
それはなかなかに面白い仕事ではあったが、いかんせん、これが放課後に行われるものでどうしても帰宅が遅くなる。
   
 我が父はこれが気に食わなかったらしい。
 「周りは皆、四時には帰宅して来るのに、何ゆえお前は遅いのか」
 「学校の生徒会の仕事が・・・」
 「そんなもんは女のお前がせんでいい」ご~~~ん
門限6時。6時を過ぎた日には、確かに学校で放課後仕事をしていたという証拠に、担任教師がわたしを送って来て父に挨拶をする。こんなこと、今では考えられませんな。

しかし、担任も毎回それができるわけはござんせん。そういう日にはどうなるかというと、家の中には、なかなか入れてもらえず、締め出しである。締め出しと言ったって、たった二間の鍵もないボロ屋。ドアを蹴破って入るのは造作もないのだが、親父殿とは正面切って向き合うことになる。すぐ手が上がる人であったので、これはやはり恐かった。
   
目前の工場廃屋がわたしの避難場だ。親父殿のお許しが出るまで、わたしはそこで得意の口笛を吹くのである。 「家の中へ招じ入れられても、また叱られるな。もうそろそろ、生徒会の仕事も音楽の部活も辞めないといかんな・・・」 と、始めはなんだかやりきれない思いで吹き始める口笛。

そんな気懸かりはやがて少しずつ消えて行き、数曲吹いているうちにいつの間にかすっかり吹き飛んで盛り上がり、そこはコンサート場さながらだ。暗い、だだっ広い工場の廃屋に、エコーを伴って口笛は澄んだ音色で流れ流れ流れ・・・・

やがて母の声が聞こえる。   
「ゆーこ、ほれ、家さ入れへ」
   

編集の仕事も音楽の部活も、まもなくわたしは辞めた。
そして、読書へとのめり込み、これは既に書いた「蛍雪時代」へとつながります。

みんなの読んで良かった!