FINDING DORY: 最初のシーンで壊れた
※ネタバレ有り
久しぶりに泣いた。涙が頬を流れ落ちてく感触、何年ぶりだろう。
いつの間に、自分の感情をコントロールすることができなくなってて、溢れる涙の止めようがなかった。ヤラレタ。
しかし、なぜだ?
過去に何本もの涙を催す映画を見てきているのに、実際泣いたのは1、2回しかない。。。
それは、Opening Sceneで俺は既にこの物語のトリコになっていたからだった。
Scene Breakdown
激しくかわいい。台詞ひとつ発しただけなのに、なんつー可愛さだ。この小魚に関心を抱かない人っているわけ?
短期記憶喪失の幼いDORYが他の子供達とうまくやっていけるよう、Doryの両親は子供のふりをしてDoryと隠れんぼを始める。しかし、オニのDoryは10数え終える前に、隠れんぼをしてたことすら忘れてしまい、子供の魚の群れへ気づき、そっちの方へ向かう。幸い、Doryが引き波に吸い上げられる前に母親に止められる。引き波の危険性は前に歌にして教わったが、まだ幼すぎるのか、Doryにはわからない。。。
困った表情を浮かべる両親。
過酷すぎる現実の前兆。
教科書通りのタイミングで映画のテーマが示され、タイトル。
FINDING DORY
暗い海底。永遠と続く昆布の林が暗闇の中へと続く。
姿はまだ見えないが、観客は悲しい必然が既に起きてしまったことを察する。
Doryは迷子になってしまったのだ。
Thoughts
ディズニーとピクサーのロゴが画面に写って、わずか数分で、Doryに感情移入をしていた。完璧に。
10秒も記憶を残せない幼い子供。壮大な海。親と逸れてなんかしてしまったら、一巻の終わりだ。Doryにとってこのハンディキャップは致命的だということは、大人なら誰もが想像つくと思う。そんな過酷な現実、親は自分の子に想像もさせたくないであろう。
しかしDoryが想像してたものは、はるか哀れだった。
この瞬間、俺は気づいてしまった。Doryが迷子になり、両親のことを忘れてしまうことは、必然だと。そして、俺の中で何かが壊れた。すごい勢いで熱が胸から目へ急上昇して、涙として出てくると思ったが、一瞬で冷めた。
誤作動?
人前で泣くことは、どちらかつーと恥ずかしいことだから、無意識で涙を堪える習慣がついてると思うんだけど、その感情を堪える部品がショートしたみたいな。
感情移入しきるって、こーゆーことなのか。登場人物へ深い関心を抱き、自分の感情を無防備状態に落とし込まれること。映画のイントロでこれほど物語にどっぷり浸かることができたのは、いつぶりだろう。次のシーンから、喜びに満ちたエンディングまで、一瞬も飽きを感じなかった。てか、ずーっと、Doryのことを応援してた。で、喜怒哀楽まじ激しかった。笑
そんな感情のジェットコースターが友達にシェアしたい体験として成り立つのか、つまらないものになるのかは、脚本と演出次第で、Pixarは両方の面で素晴らしい仕事を発揮したと思う。でも、この作品がなぜ(個人的に)秀でたかというと、さらに、物語の心となるテーマが個人的に響いたからである。
家族の絆は消える(忘れる)ことはない。例え短期記憶喪失という障害があっても。よくあるテーマだが、俺の心を揺さぶり、映画終盤の感動の涙のシーンで、堪え切れない涙を溢れ出していた。
Film Schoolで物語におけるテーマについて教わってはいたが、Finding Doryを見て初めてテーマの内在の大切さを感じた。テーマは作者にとって物語の道しるべになり、自分の物語を通して、観客に何を伝えたいのか再確認させてくれる。そのメッセージに観客が耳を傾けたくなる届主に主人公はならないといけない。
おもしろい映画は、当たり前だけど、見てて楽しい。でも、これほど完成度が高いとfilm schoolで学んだ、捉えにくい脚本術も色々と記憶から蘇り、実におもしろい。
とりあえず、書こう。
#unforgettable
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