ゲイである自分。愛されたい自分。


 自分のこと。今朝は眠れず、眠ることをあきらめて朝。3時台から活動している。そして、7時過ぎくらいかに寝た。いまは15時半前。眠れなかったのは、思い出していたからだ。母とのこと。きっかけは、憎しみという単語だった。パウロ・コエーリョさんの小説に出てきたその言葉を読み、とても気にかかった。自分にもある気がした。とても破壊的な、攻撃的な、憎しみの自分がいるように感じた。それが、昨夜、出てきた。かつての家では、兄と2人でひとつの部屋を使っていた。それは、いくつの時までだったか忘れたが、おそらく中学生の途中までだった気がする。ひとつの部屋で布団を二つ並べて寝ていた時代に始まり、ロールカーテンで8畳くらいの部屋を二つにわけ、それぞれをそれぞれの部屋にした。奥が兄。手前がわたし。それは、窮屈で、窮屈で、物理的にもそうだけど、精神的に息が詰まった。なにせぼくはゲイだった。ゲイであることを知っていたがそれを強く恥じていて、自分でもないもののようにして暮らしていた。ゆえに、誰かといるときは常にどこか緊張をしていた。家族といる時間にはだいぶほぐれたが、それでも一人になれる時空を求めた。そして、自己主張をした。父の部屋だった1階の和室をぼくの部屋にすることが許されたのはいつだっただろうか。それからは、部屋にこもるようになった。とにかく自分だけの場所が必要だった。ルームシェアとか、寮とか、考えただけでも気が狂いそうに思えてしまう。ぼくは、人といるかぎり、待機電力のように自然とエネルギーを相手に対して使ってしまう。気になる。気にする。思春期のぼくは、重大な隠し事があり、それは絶対に誰にもバレてはならぬことだった。もちろん兄にも。だから、兄の気配というのをロールカーテン越しに探ることとなった。探り、備える。べつにやましいことをするわけではない。けれどオナニーはもう知っていた。小学生の頃から、精子はでない、射精はしないけれど、イクという感覚はしっていて、夜な夜な布団の中で想像を繰り広げイっていた。それもバレてはいけないことだったので、安全を感じた時にだけやった。

 

 窮屈だった。なにもかも。人生自体が窮屈だった。ゲイというか、オカマというか、ホモであるというか、とにかくそうした性質が自分にある、と気がついたときから、ぼくは人生を呪うようになっていた。いつか治ることを信じて神に祈ることもした。けれど治るどころかその存在は大きなものとなっていった。恐ろしかった。自分が不浄であると感じていた。顔をあげられない、笑えない、笑ってはいけない感じ。そんな毎日。楽しいこともあったけれど、どこかしらにそれを後ろめたく思う気分はあった。忘れたくても忘れられない。ひとりを求めたが、ひとりになることが怖かった。闇は、自分の内面へと意識を向かわせる。死へと。人生へと。ゲイへと。完全に分裂していた。表向きの子どもの自分と、ひとりになったときに現れる自分の手に負えない自分。その影の自分は、子どもではなかった。無邪気でいることはできなかった。毎晩、なぜ自分は生きているのか、なぜ生まれてきてしまったのか、死んだらどうなるのか、どうして誰もわかってくれないのか、どうして神様は助けてくれないのか、自由になりたい、この苦しみから自由になるためには死ぬしかないのだろうか、大人になって家族を捨ててひとりきりで知らないどこかで生きればいいのだろうか、ひとりで生きていけるだろうか、グルグルグルグル解決できない問題について考えては恐ろしくなっていた。闇。

 


 母は、一般的な、おばさんとは違った人に思う。それは欲目なのかもしれないが、大人になった今の自分が振り返ってみても、やはり「おばさん」ではないように思う。男ばかりの家族だったためか、母はどこかずっと女であった。女であることが許されたのかもしれない。娘と女を競うこともない。相手はすべて男である。とりわけ、次男である自分とは、ぼくがゲイであるということも大きいのだろうが、なにかしら近い感性、感覚のようなものがあったように思う。いちばん母の、母方のエキスを受け継いだのがぼくだったと思う。だから共感のようなものもあったし、母の感性を誇りにも思っていた。一方で、似ているが故に反発心も大きかった。母は、今にして思えばとても独善的であった。支配的とすら思えるほどに子どもたちに対して、自分の考えや価値観を教え込むようなところがあったように思う。母の夢だった、「男の子でピアノが弾けるのはカッコイイ」を叶えるため、兄弟は3人とも小学生になるとピアノ教室に通わされた。ぼくは、嫌だった。習い事はすべて楽しくなかった。義務感で通っていたからだと思う。小学6年のときにピアノ教室をやめると、自発的に弾くようになり、それ以降、二十歳を過ぎるくらいまではぼくの慰めとなり、解放を手伝う道具となってくれた。ピアノを弾いている時間は嫌なことを忘れることができた。

 

 こんなにも認められたいと思うのは、なぜだろうか。認められたいと思うのは、認められないと思っているということかもしれない。認められない。それは、母に認められない。ぼくは、母のつくりだす、ぼくにとって絶対的なその世界にはみとめられないものだった。容認ということの前に、確認されない、みとめられない。たしかにぼくの住んでいたあの田舎、郊外にはゲイなんていなかった。いるように思えなかった。それは街の本屋でも、テレビやラジオからもほとんどその存在は知られていないのだった。少なくとも子どものぼくの世界にはほとんど都市伝説のような存在だったと思う。しかし、その幻の同性愛者が自分だったのだ。そのことのショックといったら、今の自分にはもう想像ができない。ある日、気がついたのか、じょじょに気がついたのかも憶えていない。ただ、女の子にまるで興味がむかず、目で追いかけるのも思い返すのも男子だった、ということ。カッコイイ男の子と仲良くなるということがとても重要なことだった。

 

 ずっと、あの頃の、認められていないという感覚なのか思い込みなのかが根づいている。それは、母の価値観、世界観を自分のものとして受け入れたからだと思う。そしてそのことに気がついていなかった。昨夜、ようやく気がついた。いや、何度も気がついているのだろう、たとえば母にカミングアウトをしようと決めたのも、自分の本当を彼女に知って欲しい、知ってもらうことで自分の世界を認めて欲しいと思ったからだ。認めてもらうことで自分が自分の人生を歩めるように思った。けれど、今このようにして書き出してみると、やはり「認めてもらう」という言葉がでてくる。母に認めてもらうことで自分を認めることができるというのは、母の価値観のもとに生き続けるということであったのだ。母は、「父に言う必要はないのでは」と、カミングアウトを聞いて言った。私が知っていればいいことでしょう、と。そのときは、母にさえ知ってもらい、受け入れてもらえたらそれで充分と思った。だから、父には言わないことを受け入れた。そして、その頃のぼくは、ほとんど父と顔を合わせることも言葉も交わすこともなかったし、それを残念に思うこともなかった。父はいていないようなものだったのだ。

 

 いかに母の存在感が大きいことか。うちは、母子家庭のようだった。父は、たまの休日に家族を残しひとりで映画を観に行くような人だった。怒られた記憶もほとんどない代わりに、愛されたという記憶もほとんどない。大人になって母とそうした話をするようになり、母は「自分が一番の人だから」と父のことを言った。今のぼくも、父のことをそのような印象で捉えているのは母の影響だろうか。けれど、父は、本当にマイペースで、父親らしいふるまいというのが昔からほとんどない。それが「父親」というものだと思っていたが、友だちのお父さんを知るようになると、いろいろな父親像があることを知る。

 

 ともあれ、ぼくは、ずっと、40歳になる今日まで、母の庇護のもと、母が許可する世界の中で生きてきた。お釈迦様の手の中で自由を謳歌したつもりになっている孫悟空のように、ぼくがぼくなりに考え、生き、表現してきたあらゆることはすべて、母の許容の範疇にあることだったのだ。無理にそれを越えることはないのだろう。母は母でまた、年とともにより穏やかになり、キャパシティーのようなものが広がり、自我のようなものが弱まっているようだから、かなりのことは許容できてしまえるように思う。覚せい剤とか、大麻とか、そうした法にふれ、社会的制裁を受けるようなことはおそらく許容できないのではないかと思う。が、それもわからない。それに至る経緯を彼女なりに理解しようと努めるかもしれない。そして、それを許せた、許すことができたとき、また母の手の中にある自分を知るのだ。けっきょく、行為の問題ではない。心の問題だ。心のありか。裁きのその基準が自分の価値観に基づくものか、母の価値観に基づくものかの違いのようなものか。これ以上は無理。これが限度。という枠は、知らず知らずに母のそれを踏襲していたに違いない。もちろん母のできないことをしている。大学を中退したことも、フリーのライターになったことも、それをやめて絵を描きだしたことも、母の人生にあったことではない。けれど、その見えがかり、肩書き的なことはそのようにぼく自身のものであったが、実際問題、専属記者という半分サラリーマンをやめてからは、ときどき母からの援助を受けている。お金をもらっている。それは1万円だったり、10万円だったり、そのときどきによって違う。お金を借りたこともある(返していない)。それは、母が生きなかった人生ではあるが、母が援助をすることで、ぼくが母の援助を受けることで、母の内側にある人生となっていたのだ。親離れ子離れができていないということ。癒着しているということ。

 


 そして、フリーといいながらも特定の雑誌からコンスタントに仕事をもらっていた状態から離れると、経済的に不安定になり、いつからか母からの援助を期待するようになっていた。麻薬的に。救いを求めてしまう。依存状態。それがあるから大丈夫、と、自分の責任を自分でとらないことがしみついていた。そうしたいびつな形の母子関係へと向かっていった。気がついたらそのようになっていた。ゆえ、とても不安になった。あてにしていないようでいて、実はもっともあてにしていたのがその援助なのだ。やるだけやってダメだったら頼ろう、というのは、もっともあてにしているということだ。セーフティーネット。それが、親子というものだ、とすら思ってしまっていた。けれど、そうしている間は、自立などできないのだ。精神的な自立が先にあり、現実的な、現象としての自立がやってくるのだ。ぼくは、昨夜、そのことにようやく気がついた。それは、頼れるもののない恐ろしさに気づくことでもあったが、自由を思い出すことでもあった。もう心配しなくていいのだ、母との関係を。母に好かれなくてもいいのだ。母からなにももらう必要はないのだ。与える必要もない。与えよう、受けとろうというのではなく、結果的に与えたり受けとったりしている。健全な関係とはそういうものなのだろう。それが利害関係のない間柄であり、対等ということなのではないか。ぼくは、自分にも力があるということをこれから知るのだろう。助けてもらう必要がないことを知るのだろう。自由を知るのだろう。不思議でありとても必然なこととして、母の援助を期待しない、手放す、自分で自分の人生をやりくりする、そのようにしてよいのだ、と気がつくと、同時に、人に嫌われてもいい、好かれなくてもいい、人の機嫌を気にする必要がない、ということを知った。嫌われる勇気というのは、自立する勇気のことかもしれない。思い返せば、ぼくの周りで、ぼくのような暮らし方をしている数人の知人は、みな母親との関係をこじらせているようにぼくには見えた。それは投影だったのだ。そこにヒントがあったのだ。彼女らの歪みというか、形は、ぼくのそれであったのだ。ぼくを含め、共通しているのは、母に頼りまくっているにも関わらず、母の干渉を怒っていたこと。すなわり、自立しているつもりになっているが自立できていない、ということだろう。母に部屋を掃除してもらっていながら、その恩恵を受けながら、部屋の中のものを勝手にさわらないで! と怒るような感じ。それって思春期にいかにもありそうなことだ。実家に暮らしながら、生活のすべての面倒をみてもらいながら、「私の部屋に勝手に入らないで!」と怒るというのも思春期にありそうだが、それを経て、独立、自立をしていくのだろう。けれど、居を別にしたからといって、イコールそれが自立ではない。ぼくがよい例だ。実家を出たのは今から14年前で、独立してから数年の間は、経済的にも上り調子で、実家に帰ることはなく、自分から連絡することもなく、完全に独立家計だった。その数年をみれば、自立完了なのだけど、そうではなかったというのが、なんとも不思議だ。いや、もしかすると、結局のところ、自立ができていなかったために、その後、今につづく経済、そして精神状況が生まれたのかもしれない。逆に考えると、自立的だったあの数年間はなんだったのだろうか。なぜ、その数年間はそのように暮らせたのだろう。


 母が、それを許してくれた、ということが、自分を自由にふるまわさせたのだろう。枠の中の自由。それは、理解を必要とした自由。母がそのようにして働き、生活をすることを知っていて、理解をしてくれて、つまり受け入れてくれているから安心してそれをし続けられるということ。たとえば、週刊誌の記者をすることを母が絶対反対、と示し、それをするなら勘当すると言われたとしたら、果たしてぼくはそれをやっただろうか。いや、やったかもしれない。いつか許してくれるだろうと信じて。いや、許しなど必要ないという反発心から。どちらにせよ、それは母の価値観が基準となった生き方であるということ。

 

 この半年、恋人とのほとんど隠居生活のような日々に、ぼくは次第にいろいろな意欲を失っていった。その根本には母への、専業主婦への憧れのようなものがあったのかもしれないと思う。カレを母のようにして、母のようなカレの庇護のもとに、ただただ子どものようにして、好きなことだけをして、したくないことを避けて生きることが、いちばんの安全で、いちばんの幸福なのだと思っていた。そして、来る日も来る日も寝た。寝て起きて、食べて寝て起きての繰り返し。まるで子どもの毎日だ。夏休みの子ども。いや、夏休みもない本当の子ども。自分はなにもしなくてもよい。なにもしなくても許されていて、愛されている時間。それを欲した。そして、その生活を支えるのは他でもない母であったのだ。それは、母にもう一度子ども時代を、ぼくが望む子ども時代を過ごさせてもらったということなのだろう。ぼくはそれを欲した。ぼくは、愛されたかったのだ。ただ生きていることを許されたかった。そしてそれが叶った。

 


 ぼくの中の子どもが、それを必要にした。どうしても。どうしてもどうしてもそうしたかった。どうしても、許されたかった。自分が自分であることを、生きているだけで価値があることをどうしても知りたかった。生きたかった。なにもしないことをする必要があった。それは、ぼくの強烈な無価値観、自己嫌悪、自己否定からやってきた強烈な望みだった。それをせずには先に進むことができなかったのだと思う。自分のことを自分が許せなかった。愛を信じることができなかった。自分が愛されていることを受け入れることができなかった。それくらいの自己否定をしてきたということだ。

 

 その安全な毎日は、けれど歪んでいたのだと思う。年齢的には大人でありながら、やっていることは幼子なのだから。幼少期の歪みを正すにはもう一度歪みを経験する必要があったのだと思う。そのような時間を経ることで、ようやく幼きぼくは本当にただ自分であることを許せるようになったのだ。ぼくは今40歳だ。自分にできないことはたくさんあるのだろうが、できることも同じだけたくさんあるのだろう。自分ひとりが食べて、暮らしていくだけの糧を得ることはできるだろう。体も動き、心も動く、はたらくことができるのだから。誰かに守って、助けてもらうことが確保されていなくても、生きていくことはできるのだろう。その力はきっとある。ぼくは愛されているのだから、愛を求める必要はもうないのだ。なにをしていても、なにもしなくても、生きることが許されたのだ。母に、宇宙に愛されたのだ。それはきっと生涯変わることはないのだと思う。今日からは、自分を生きよう。自分の生き方は自分に尋ねよう。自分の価値観に従って生きていこう。なにをしてもよい。迷惑をかけてもよい。それが誰にとって迷惑になるのかなど、自分にはわからないのだから。

 


 自分らしく、ありのままに、というのは、やさしい顔をして、とても厳しいことかもしれない。それは、誰もあてにできないということだから。誰の価値観とも合わないことを自分に許すということは、はげしく孤独であるということだ。けれど、それをすること、そのように生きることこそが、この唯一無二の命をまっとうするということなのだとぼくは思う。恐ろしくても、大丈夫。大丈夫だと信じて、自分を生きていこう。

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