ダメダメな私が6度の挫折の後、憧れだった国内王大手エアラインと仕事をするまで(私の半生)

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前話: ダメダメな私が6度の挫折の後、憧れだった国内大手エアラインと仕事をするまで(私の半生)その2 自転車での日本縦断旅

何も変わらず、何も変えられない中での復学。

彼の名前を消した大学院生同様、皆が皆、彼が最初からいなかったかのように

普通に過ごしている。自分だけが学年が2回りも違う学生と

彼と励んだ実験や製図をもう一度習うこととなっている。


もう実験も製図もやりたくない、興味ある授業だけ受けようと決めた。


受ける授業はfoundation curriculumと呼ばれる基礎的な授業ばかり。

ご存じの方はご存知の通り、いくらとっても卒業は出来ない道。

必修科目を履修しないことには卒業ができない。実験も製図も必修。

それを受講しない=何年経っても卒業できないことを意味する。

それでも自分を守るためにはそれしかなかった。


アインシュタインの相対性理論やスポーツ心理学、

学校周辺の史実をつまびらかにする公開講座や

たいして役に立つとは思えなかった各種資格試験まで

必修科目から目を背けるために少しでも興味があるものを受けに受けた。

時に学校に申請しないまま潜りの聴講生として受けたりもした。

この時には流体力学や構造力学よりもそうした文系科目に没頭していった。


その中で歴史上の偉人が学校に馴染めなかったことや

病的にまで没頭するあまり回りからは奇人変人と映ったことを知る。

不器用に生きた彼らにシンパシーを感じた。逆を言えば

自分も場を変え、人が変われば少なからず活躍できることがあるのではないか?

ようやく出口らしい出口が見える予感がした。


その予感を抱えて有り余る時間を用いて図書館に通った。

地元の公民館にある図書館で小学生が読むような本にまで目を通して

自分の居場所を探した。彼と通いに通った図書館でも

その時からは苦痛ではなくなっていた。逆に彼に応援されるために

彼とよく座っていた席に座って読み漁った。それでもまだ居る

入学当初の同級生や自然消滅した彼女に見つからないように

本を山積みして壁を作ったり、調べもののをコピーしたものを周囲にはりつけ

異様な雰囲気を醸し出したりもした。


その中で先の電車での出来事もパニック症候群と言われること、

その時していたこともモラトリアム時期によくあること

ということもその時知った。

彼の一件で、信じられない人たちの行動も環境が人を作ることを知ったのも

この時だった。

重い機械を軽く、難しかった操作を簡単に、今では複雑な情報も

1と0でデジタル化し・・・そうした時代の要請に基づいて・・・と

もの作り環境を取り巻く環境を言葉にし、

その中でモノ作り人に求められる要素を上げ連ね、彼らを理解した。

(  つもりでいた。)

言葉悪く言えば、そうしてようやっと自分の心の尻拭いができたのだ。


踏ん切りをつけると自ずと心理学への道が見えてきた

大学に4年通い見えた2年生の秋だった。



大学編入そして絶頂期へ!!

方向転換を是としてくれたのは彼の言葉だけ。

その言葉に後押しされ実際に動き始めるまでに1年と半年を要した。

その時、季節はもう秋から冬。調べ始めた時期が遅く、

その年の心理系の大学の門は閉ざされつつあった。


それでもどうにかこうにか探し当てたのが小さな小さな大学の

小さな小さな学部。1学年1学科300名弱もいた大学の真反対。

全学年でもそんなに居るか否かくらいの大学。

4年間を無にしない編入という形があることも知った。


退学理由では恨み節を炸裂させつつも次の大学に編入試験を受ける為の

読み替え可能なカリキュラムが何にあたるのか書類を出してもらった。

なんとか間に合わせて出した書類は応募締め切り当日だった。


親に相談せずに決めた大学編入。

その試験を受けに行くのも親が寝静まった後、終電間際の電車に飛び乗った。

電車に乗ると風雲急を告げる出来事を象徴するかのように

稲光が走り豪雨が降り始めたのを今も覚えている。



電車は受験する大学の隣駅までしかたどり着かなかった。

時間は夜中2時過ぎ。ホテルの予約もしていない。

雷雨はもう上がっていた。駅前にあるカプセルホテルに転がり込んだ。


試験当日。

一駅電車にのって学校行きのバス亭からバスに乗った。

バスを降りると会場まではすぐ。

門に立っている人に挨拶をすると・・・


「頑張ってね!片山さん!」と


そら耳かと思った。なぜ?自分の名前を知っているのか?

不思議な気もしたが会場へと急いだ。




1週間程後、母親が部屋に入ってきた。

「なんか合格通知が届いているんだけど・・・」


見事合格していた。

その時点で親には話をした。2浪したと思ってもう2年行かせて欲しいと。

繰り返された家族会議。

これまでも家族は同じスタンスで向かっていたのかもしれないが

自分の心持ちが違ったのか、気持ち和やかに進んだように思う。


渋られたがなんとか承諾を得た。合格手続きと下宿先探しに編入先の大学へ。


一軒家の2階部分、外階段で上がっていける。

トイレと流しのついた6畳と4畳の2間。風呂は無し。

1ヶ月4万水道光熱費込み、大学からも自転車で5分のところに

その日のうちに決めてきた。


自分の人生の加速度が上がっているのを生身で感じてはいたが

その時はまた借り物とは言え自分の夢となった航空機業界に

関われるようになることとは当時、毛頭思ってもいなかった事は言うまでもない。


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