思いでのバスに乗って:急行日本海、夜汽車に乗って(2)

前話: 思いでのバスに乗って:急行日本海(1)

男と女の泣き言の歌謡曲は、わたしは好みではなく、だから演歌はもうひとつ、好きではないのだが、歌謡曲なりとも志を高揚させたり、我が心にズシンと残ったりするものがあったりする。ひばりさんの「柔」と同じように、この歌もその一つである。

どこかに故郷の香りを乗せて
入る列車の懐かしさ上野はおいらの心の駅だ
くじけちゃならない 人生はあの日 ここから始まった         

青森県出身の歌手井沢八郎が歌う「ああ、上野駅」である。
歌は世に連れ世は歌に連れ。時代が変わってしまった今では、こんな歌は「ダサい」の一言で隅っこに押しやられるであろう。しかし、時々台所に立ちながら、この歌を心中で歌うとき、その心根が迫ってくるようで、わたしは思わず泪がこぼれそうになるのだ。我が心の駅は14の時の「大阪」です。

弘前から秋田、酒田あたりまでは日中だが、やがて日が暮れ、新潟、富山、金沢と「急行日本海」は夜通し走って、翌朝大阪駅に入る。
     
叔父は、迎えに来ていた。
田舎からポッと出の、見るからに「いもねぇちゃん」のカッコしたわたしを、「いらっしゃい」と迎えてくれるのである。黙って家を出てきたことを話すと、きっと心中は「困ったものだ」と思ったであろうに、そういうことはおくびにも出さず、「じゃ、心配するといけないから、ボクんとこにいると一言電報だけ打っておこう。」
この時もしも、叔父がこっぴどくわたしを叱ったり、無愛想だったりしたとしたら、恐らくわたしの人生は、今とは随分違ったものになっていただろう。なぜなら、この叔父のさりげなさに気を良くし、わたしの家出はこれで終わらず、再び繰り返されたのだから。

初めて目にする大阪のなにもかもが都会そのものだった。叔父達の朝食が納豆ご飯でなく、「トースターに目玉焼き、ハム」だったのが都会!自家用車ではなかったものの、叔父の休日には、会社の車で京都や奈良へドライブするのも都会だ!
西宮の社宅に自宅お風呂があったのが都会。 
お隣のおばのお付き合い友だち宅、2階が「カトレア」と言う名の美容院なのが都会。
震える思いで決行した家出に、これら全ては値すると思われた。

わたしの家出に、根負けした我が両親、そして同じく根負けしてしまい、当時はまだ子供がいなかった、このおじとおばにわたしは引き取られることになるのである。
     
中学3年のほぼ一年間、西宮中学校を始めに、次には叔父たちの引越しで大阪阿倍野区にあった社宅団地へ引越し、阪南中学校に転校した。生まれて初めての、小さいけれども自分の部屋、自分の机を与えられ、最初は夢見心地であったのが、やがて思い知った都会と田舎の学力の差。
     
今でこそ、都市も地方も学力に於いては大差はないと思うのだが、50年ほども昔には大きな違いがありました。それに、元々小中学時代はろくすっぽ、勉強した試しがなかった。これには、私自身が相当に慌てふためいた。もう、トースターだの、目玉焼きだの、どころではない。
     
まず、わたしの字の下手なこと!
そのミミズがのたくったような筆跡を直そうと、おじは毎朝食前に、小さなノートに自分のお手本を鉛筆で書き、わたしはそれを見ながら書写する。これが毎日10分ほど。
どの学課もみな苦労したが、基礎学力のない学課は手の施しよう無し。理数系は歯がたたず、どうにもならないのであった。     
     
しかし、しかしですぞ、ここで我が努力が少しずつ花開した学課もあったのである。音楽、国語、英語がそうであった。

一年もして、やがて進学を決めなければいけない頃には、わたしは少しだけ物を考えるようになっていた。おじおばの元で、弘前でのような不自由がなかったとは言え、他人の家の釜の飯を食うということは、14、5歳の少女に学ばせるものがないわけがない。

「本当にそれでいいのかい?」の叔父の言葉に、ハイと答え、高校受験を目の前にして、わたしは故郷弘前へ帰る決心をしたのである。おじたちに見送られ、大阪駅から再び急行日本海に乗り込んだわたしの胸に、希望と諦念が行き交い、夜行列車の窓に映る15才の旅人の姿は、今思い出すにつけ哀れげであった。


あれからほぼ半世紀の時が流れた。わたしはジブラル海峡を越えるとアフリカ大陸だという、ヨーロッパの端の国、ポルトガルで、これを書いているのである。

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