【10月1日ピンクリボン】がんになった妹とわたしが、初めて一緒に取り組んだ再生のストーリー

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2歳年下の妹ががんになった。




 わたしは幼稚園にもいかない頃から遊びの天才で、妹は泣き虫だった。待って待ってと泣きながら追いかけてくる妹を全力でまくと、庭や、裏山にあるすべてを所有する王様になった。小川に足をつけて魚を探したり、ダムを見に行ったりしていた。遊び尽くして家に帰ると、母親と妹がぴったりくっついてクッキーを食べながら、おしゃべりをしていた。だから、妹を、絶対にどこにも連れていってあげないと心に決めていた。




 わたしは探偵で、妹は助手だった。サンタクロースが父親であるという証拠とアリバイを集めて、母親に提出した。妹はそれを信じなかったので、わたしは妹をクビにした。




 わたしはシェフで、妹はお客さんだった。日曜日の朝は、家族の人数分のホットケーキを焼いた。きれいにキツネ色に焼けたら、妹にそれを食べさせ、焦げたものがあったら、自分で食べた。わたしはバターの味が好きで、妹ははちみつやシロップをかけるのが好きだった。




 わたしは国際派で、妹は地元志向だった。いろいろな世界をこの目で見て体験することで自分を探したいという、よくある熱病にうかれたわたしが外国に行っている間に、妹は手に職をつけ、すっかりちゃんとした大人になった。




 わたしたちは二人とも幸せな結婚をした。わたしはコンサルタントとして西日本をあちこち出張する仕事に没頭し、時間を切り売りする忙しい毎日だった。妹はグラフィックデザイナーになり、地元でフリーランスとしての実績を確実に重ね、自分のペースで、信頼できる人間関係を築きながら、実りのある毎日を過ごしていた。




 妹はがんになった。子どもを持ちたいと言っていたけれど、乳がんになってしまった。妹は悪いことはなにひとつしていない。フツーに楽しく人生を過ごすことができればそれが幸せなんだと感じているような子だった。子どもを持つことに少し葛藤を感じるような、こじらせてしまっている私とは違って、親孝行のためにも子どもを持ちたいと素直に考えている子だった。ちょっとした心の闇を未だ克服できない私のほうが、社会的にはずい分と未熟で不完全な存在であるはずだ。だけどがんになって、子どもを持つことが難しいと宣告されたのは妹のほうだった。




 「できることなら、わたしが代わってあげたい。」みたいなことは、結局最後まで言えなかった。いつも妹の前では、なんでも体験してきた賢人のふりをして先輩面をしてきたくせに、あまりにも巨大な恐怖と不安を目の前にして、わたしは「大丈夫だよ」とか「きっと良くなるよ」といった月並みな言葉しか言えないただの臆病者だった。妹はどんな気持ちで対峙していたのだろう。抗がん剤で立ち上がることもできないほどの辛い日々を耐えるうちに、髪の毛も抜け落ちて、爪もぼろぼろになった。もともと痩せていたのに、体重計は35キロを示すようになり、最終的にはがんを摘出するために、手術台に上がった。




 妹のために何ができるのかな、と考えたとき、妹のことを多くの人に知ってもらうのがいいんじゃないかなと思った。妹の乳がんは「トリプルネガティブ乳がん」と呼ばれているもので、まだまだ完全にはわからないことが多い、厄介なタイプだということだ。だから、乳がん患者さんや、その家族、友達、皆さんに、妹の治療方針や記録を公開することで、何かお役に立てるかもしれないし、何より、今、苦しんでいる人たちへ、励ましのエールを送りたかった。

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