父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙(5)

前編: 父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙(4)
後編: 父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙(6)

それからしばらくの間は、これでも大病なんだろうかと思っていたよ。

胸が痛くなるとか、息が苦しくなるとか、そんな症状がまったくなかったし、体調はすごくよかったから、今までと同じようにジョギングをしたり、ロードバイクに乗って50キロ走ったりもした。それでもこのまま放置すれば、あと一年か二年しか生きられない。とても信じられないことなんだけれども、外科医は、はっきりとそう言っていた。一刻も早く手術をして、運がよければ術後5日を過ぎれば退院できるとも。

病名は、肺がん。

ともすれば死に至る病。

現実を直視すれば、父さんのステージは推定IA期。5年生存率が50%前後というステージⅡでも、外科手術が難しくなるステージⅢでも、末期がんと呼ばれるステージⅣでもない。早期発見ができた幸運を喜ぶべきなんだ。5年生存率は70〜80パーセント。言い換えれば、5年の内に20〜30パーセントが死ぬ。

希望と不安とが入り混じる。ぼんやりとした湿った憂いが交錯する。だから、「運が悪ければ…」ということを、父さんはほんとうに考えたくはなかった。

「手術をして右肺の上葉を切除するということは、上葉の一部にできた肺がんを取り除くために、95%の正常な部分を失うということです。」

母さんと日赤に行った翌週、呼吸器外科の再診のときに、

「いいですか。右肺上葉の大部分の正常な肺も、すべて切除するということを理解しておいてください。」

外科医は覚悟はできたかと言わんばかりに繰り返し言ったけれども、父さんは母さんと相談して手術をすることに決めていたから気にもとめなかった。それよりも、手術をする前にやらなければならないことはたくさんあることに驚いた。

呼吸器外科では、レントゲン、心臓血管エコー。

耳鼻咽喉科では、甲状腺エコー。

歯科口腔外科では、手術のときにくわえるマウスピースの型取り。

血液内科では止血検査、自己血輸血するための採血、通称「自己血」。自己血輸血とは、手術の際の出血に備えて、前もって採血し保存しておいた自分の血液を輸血することだそうだ。

麻酔科医からは全身麻酔の説明を聞いた。

薬剤師から今飲んでいる薬を聞かれた。

管理栄養士による食事指導を受けた。炭水化物の摂取が多いことと野菜不足を指摘された。

患者支援センターでは、高額医療費制度の説明を聞き、入院するためのたくさんの書類を受け取り、同意書をいくつも書いた。

やっぱり肺がんは大病なんだ。

そう思い始めたら、いろいろなことが急に気になり始めた。

肺がんになった人のブログをたくさん読んだ。そこには、無理をしてがんばったり、平静を装ったりする必要はなく、つらい気持ちをため込まず、家族や友人に打ち明けなさいと書いてあった。「がんになったのは、決してあなたのせいではありません」とも書いてあった。父さんは「あたりまえだ」と言い返したくなった。途中で途切れているブログもいくつかあった。その人はきっと亡くなったんだと思ったら、切実に悲しくなった。

Youtube には胸腔鏡下手術の動画もあった。

肺を切除する手術の動画を見ていると、それだけ息が苦しくなる。それでも20分間のダイジェストを目を凝らして見た。自分もこの手術をするのかと思うと、目を離すことができなかった。

わかったことは、命にかかわることだから、誰もが怖くなるということ。だからと言って、恐怖にさいなまれていても仕方がないということ。だから、今、できることを確実に実行するべきだと思った。

たとえば、術後に合併症を起こす可能性があることを理解しておくこと。

万一に備えて、生命保険の適用範囲を改めて見ておくこと。

会社の仕事にきちんと区切りをつけておくこと。

念のために単身赴任先の身辺整理をしておくこと。

独り暮らしの母に電話をしておくこと。

母は満80歳。身長145センチ、体重47キロ。

「嫁と姑は同じ家に住んだらあかん。必ずごたごたして、何にもええことはあらへん」

そう言って父が亡くなってからも一人暮らしを続けている。

昨年、不整脈が悪化した。ずいぶん前から医者に指摘されていたが、にわかに進行した。心臓が止まるのはないかという恐怖感に母はさいなまれるようになった。だから、電話をするときには、心配をさせないように言葉を選んで話をすること。

まだ着飾っている自分​がいる。自分にも、人にも、嘘をつかないこと。

正直であること。痛いときには痛いと言うこと。つらいときには、つらいと言うこと。

何があろうとも、いつだって前向きであること。後ろ向きなことは、一切、言わないこと。考えもしないこと。10年日記にも書かないこと。

決してストイックになり過ぎないこと。かえってストレスをためてしまい、免疫力を落とすから。

医者を信頼すること。よい患者であること。

呼吸器内科の先生から、手術前に最後に問われたことは、

「煙草は吸っていませんね?くれぐれも禁煙を続けてくださいね。」

三週間後に手術をすることが決まった。

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父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙(6)

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